欺瞞について

 「つまらないプライド」みたいな言い方に苛立つ。それで指示しようとしている心のありようってプライド(矜持)っていうものと全然質の違うものだと思うし、それを平気で混同する感性も適当さも嫌だし、わざわざ同じ言葉で呼ぶのはどっかに欺瞞があるからじゃないかとすら思える。英語の否定的な意味で使ってるならいい、のか?
 それはまあこれ以上語るほどのこともないけど、欺瞞ってやだなーほんとやだなーと心から感じる。正確に言うとすべての欺瞞が嫌なわけじゃないけど。欺瞞の動機、目的によるのだろうかなと、サブ思考からは導かれる。
 ネガティブに停滞するのも絶望みたいなものも、欺瞞に近いもの、少なくともそれになりうる要素として、直面しがたい問題が隠蔽されてるか、忌避して自覚されていない場合があるんだろうと思っている。自分のにもそういう感じのものがあったから。
 それだけじゃなく、しっかりと検証したわけじゃないけど、欺瞞が見える、というかどこかで嘘を奉じてるなって思える言動があったりする。真理、真実と呼べるものを求めて言葉を交わしているんじゃないのか、と思って何でそうなるのか不思議だった。自我にとっての利益、利害を守ろうとしているんだ、というのはもちろんあるんだと思うけど、そんなに守りたい理由がわからないというか、がんばれば割り切れる・突破できるように思えたから。
 それほど真理を希求する気持ちがあるわけでもない、というのは理由として考えられる。でもそれだけだとちょっと足りないのではないかと思っていたのだけど、今日少し閃いた。たぶん、「正しさ」に断罪されるのを恐れている、ということなのかなーと。
 単純に言えば、自分が正しくない、ということになるのを恐れている、というか。ちょっと前のエントリで「正しさ」が危険、みたいなことを書いたけど、それの関連で「正しさ」のイメージって「断罪者」だなー、自分にとって、と考えていたことと繋がった。お前は間違っている、お前はダメだ、ってそういう審判を下すのが「正しさ」。
 でも、そういう断罪する「正しさ」は、「外側」の視線としての正しさ、それを内面化(とはちょっと違うか)することで生まれるものであって。欺瞞をしている人たちは、外面的な部分では断罪されない位置を確保できてるはずだから、じゃあ何を恐れているんだろう、と。
 自分の良心、というような内的な「正しさ」なのかな、と。それに違う、って言われるのを、気づくのを避けている、のかなあ、というのが何となく閃いた仮説。それが妥当かな、と『自分の小さな「箱」から脱出する方法』の自分の良心を裏切るせいで問題が発生する、という内容を思い出して補強した。
 心のことなんて主観の敷衍と本に基づいた理解と勘*1のようなものしか結局のところないんで、あれですけど。推察もどこまで論理的に堅実かよくわからないし。
 なんか具体的じゃなさ過ぎて通じないか。自分でもそれほど明晰にわかっているわけでもないのだけど、暫定的にまとめたかったのもあって。また細かく概念ごとに書いたりするかも。

*1:アブダクション(最良の説明への推論)、といっていいか微妙だけれどそんなような