それでも面倒は続く

 前の記事のようなことを書いておいて、まあ結局は考えますけども。全然考え足りてないし、なんだかんだで面白いし、真っ当な自尊感情の唯一の源泉かもしれないし。気分で面倒にもなるよなというだけで。言い訳多いなあやっぱ嫌かもしれないこんな自分。
 神がいると思っているわけじゃないのだけど、神みたいな存在が要請されることが実感として理解できる場面というのがいくつかあるかなあ、と思っていたりする。許す存在として、あるいは全知の存在として。創造主としてのそれはよくわからない。世界の存在の起源や自分の存在の根拠といったことが、目下のところそれほど切実な問題じゃないからだろうか。
 少し前までは神ってのがなんでいるのかもそれを必要とする気持ちも見当がついてはいなかったし、さして考えていたわけでもないし。単に世界の始まりを説明するってことなのか、的な。カント的には道徳の根拠として要請される、というのもまあ理屈としてわかりはするのだけど実感や共感はそんなにないかなあとか。デカルトの神の証明も、そもそも神の観念を持ってないし無限とか無際限とかどう違うのさという。
 けど、ああこういうことについては神かなにかが全部わかっててくれればいいのになあ、というかそうであれば問題はない?わけじゃないけどわだかまりは減る、ということに一応してしまえる?のかな?みたいな感覚がなくもない、と主に心理的な問題について、思えたというか。あとわだかまりがどうとかというより、閃き的にあーこれなら神とか考えたりするかなというような。メタ感情のこともそうだし。そこまで突き詰めて考えてもいないけど。
 とはいえ直感的に神を知った、みたいな人らの理解とはけっこう違うのだろうと思うし、全能とかそういう性質の必要とかもわからないし。具体的な像として浮かぶわけでもなく、ある種のピースとしてありなのか、と思うだけで。
 まあ、そういう風に感じる前は、神がいなきゃいけないわけでもなければ証明できるわけでもないし、啓示の体験も直感もないから積極的にその存在を信じる必然性は自分には特にないけど、いる世界のほうがいないよりは何かしらよいということなら、いるならいるということであっても構わないよなあ、という結論を出してたけど。だったというか、今も基本はそうだけど。
 特に信じてるとか、それほどの強い・重い思い入れがあってこういうことを考えてるでもないけど、書いてしまうとえ?何かの信者?という風に見える世界の風景の人もどこかにはいるんだろうなあ、とか。それこそどうでもいいか。