正しさについて

 自分も含め、みんな「お前が悪い」「ダメだ」って言われるのを、断罪されるのを恐れてるんだなと、その割に、というかその裏返しとして他人や自分以外を「悪い」と言ったり、その責任を問い詰める理屈を創りだすのには熱心だなと、恐らくはそういうことなんだろう、と思う。
 別に誰が悪かろうが自分が悪かろうがもはやどっちだっていいから、一体どうなってて何がどうなれば問題が少しは解消するのかを考えようとはしないのかな、なんでかなっていう疑念はあった。
 私はそうしようと思えたから、結果的には苦しさが解消したんだと。そう思えたのは、本当に苦しいのがいい加減嫌でしょうがなくなったのもあるし、それなりにちゃんと思考する方法や手続きが体得できてきたのもある。
 あと、許されることについては、いくつかの音楽や人のおかげで、自分を最低限肯定できていたから、というのもあると思う。誰が悪い、とかの想いはすでにそれらを受容する過程で通過してたし、考えたら…
 あー、たぶん違うな。通過はしてなかった。そうじゃない。
 色々な苦しみについて、つまるところ何もかも私が悪い、っていうならそれでいい、そう判断して救わない・救いたくない、って思うならそれでいいよ、断罪するなら、しろよ。こういう人間だからダメだ、劣っている、まともに生きていけないっていうならそれでいいし、殺すなら殺せばいい。他人に合わせるためや好かれるために「正しい人間」に変わるなんて、できないししたくもない、しない。
 そう思ったんだった。絶望して何もかもを放棄して救いを待っていたって誰が手を伸ばすわけもないし、それで寂しく死んだとして、恨み苦しみの果てに自殺を選んだって、あるいはそれを逃れたとしても、不幸で不毛な人生、何の輝きもない、周りに誰もいない惨めな人生を送ったとしたって最終的には自分以外の誰とも関係ない。責任なんて取れないし取らない。そういうことだ。そのことを確信した。
 嫌いだった。心の病になるのは真面目で優しい人、とかいうことを言いながら、結局はそんなのになりやすい性格の人間は要らない、関わりたくない、という本音において行動がされていることが。
 それならはじめから助けない、助けたくない、弱いのが悪い、助ける義務なんてない、といえばいいのに。中途半端な正義感で、欺瞞的に善人ぶられるぐらいなら。自分のために正義を標榜しているのなら。そんなものは要らない。
 まあ、弱い、被害者としての、苦しみの中で、恨みに埋没している自我、にとってはその通りなんだけれど。単に苦しんでいて弱いだけじゃない、それだけじゃない自我の総体としての私がそういう欺瞞から、自分だけ逃れているかといえば、そんなことはもちろんない。
 先に出した二枚舌のような状況だって、別に同じ人がそういうことをしているというわけじゃない。たとえ一人一人は弱さを許しているのだとしても、社会が回る以上、そんな人間を守り続ける余裕はどこかで失われる。
 だから道徳は欺瞞なんだ、と。本質的に。だって現実に人間には色々な差があるし、見た目や財産やらで差別されるし、性格やコミュニケーション能力とやらで選別される。明るい人と暗い人、魅力的な人、価値のある人と魅力的でない人、価値のない人に分けられる。友達や仲間ができやすい人格だとか、色々なことに熱意を持てたり、人を好きになれる人もいて、そうでない人もいる。苦しみに遭遇しても毅然と立ち向かえる人もいれば、助けを求めることもできず恨みに埋没する人もいる。「正しい」人と「正しくない」人に分けられる。
 そういう「選別」において苦しめられたと思っている自分だって、つまるところ同じことを誰かに対してはしている。それを全くしない人間になんてなれるわけはない。そもそも他人の苦しみは自分の苦しみじゃないんだから、それを気にかけなければならない絶対的な根拠は提示できない。だから、そういうことだ。
 そういった思考の変遷を経て、感情や気分が絶望から脱して楽にはなった気がするけど虚しさや無力感が去来したりして、でも色々と考えたりしているうちにそれもすこしずつ薄れていった。
 その間に、人からの好意みたいなものも比較的素直に嬉しく思えるようになったし、何かしら性格や振る舞いを変えるとしても、それが「正しい」から変わるわけじゃなくて、自分でそうあるようになりたいと思えるから変えるんだ、と少しは思えるようになった。恐怖や不安も過剰に感じなくなってきた。
 思索や変化を時系列を無視してまとめているので、細かいところは違うけど概ねそんな感じだったと思う。別に自分の性格や何かがどうなったというわけでもないけど、根底にあった心の苦しみについてはなくなった、かなと思えている。だから、自分にとっての「正しさ」ってそういう色々なもやもやが詰まっている、纏わりついている概念であるわけで。それだけといえばそれだけです。長すぎた。