裁く眼

 何かを非難したり、欠点を指摘したりして、怒るというのは、その人がその人(の属する価値体系)の都合にもとづいて、判断してそうしていることなんだ、結局。それをそのように捉えられず、何か絶対的な視点から自分を評価しているように思え、自分が絶対的に劣っている、と言われていると捉えてしまっていた。そしてなんでそのように変わろうと努力してやらなきゃならないのか、と思っていた。
 そうだよな、所詮自分の都合通りになってないことに対して怒ったりしてるに過ぎないんだよな、人間。もちろん都合通りでないこと全てに対して怒るわけではなく、あることを「正しさ」のように認識していてそれに違反しているものに対して、怒ったり否定したりしている。そんなこととっくに承知済みだったはずなのに、自分に向けられた怒りや非難に対しては、そういう認識以上に、自分が何か根底的に間違っているかのように、客観的な基準から、神の眼から否定されているかのように体感していた。その評価が100%の強度で身体を貫いていた。いや、今は65%ぐらいにはなっているだろうけど、以前に比べれば。
 やっぱりまだ自己愛や自尊心が足りない、脆いんだろうか。だから、他者の評価が所詮は「一部」であると思えずに、自分を決定的に規定するもののように思えてしまうのか。
 なんで自分の都合でしかないことで、怒れるんだ、と思っているのか?他者が怒ることには、何か絶対的な正しい基準があるはずであり、そうであれば自分はそれに翻弄されるしかない存在。そう捉えていたんだろうか。そうじゃないと怒られたりするはずはないと?自分だって怒るときは自分の都合や感情なのに。幼少の感じ方を引きずったままなんだろうか。親が絶対的だった時の。その恐怖の投影、というのも多分にあるのかもしれない。
 別に欠点にも目をつぶる盲目的な愛を求めていた、とかでもないし、ましてや怒られるのは期待している証拠と考えよう、とかでもない。そういう言い方で納得できることじゃなかった。
 だから、相手のその都合に対して、自分が合わせるだけのメリットや必要があるか、自分がそれを望めるか、それが望めるならそうする、っていう当たり前のことでしかないんだ。それは解っていたつもりだったのに。