桜になりたい

 なんかダメだな。何かこーいうことを書きたいかな、と思い立っても、説明くさいことだったり、理屈に訴えようとする?ものになるのは嫌だな。今日はそれは嫌だ。もっと自分に根ざしたこととか。情感的なものとか。つらつらとしたもの。が、いいな。それがすっとは書けないんだよな。逆に辛い。そうならなきゃ、とかではないけど。
 何も感じてないのかも。完全にニュートラルなわけじゃない。心地いいくらい。理屈はいや。必要だけど、感じたことや欲求にまでずかずかと持ち込むものじゃない。距離ができる。理屈は、自分の世界を組み立てようとすること。それは城だし、鎧だし、剣。役には立つ。人を説得もできる。ないときっと生きられない。でも、それが強固に作られるほど、距離ができ、対立する。「そうじゃない」ものが生まれて、立ちはだかる。これ自体は理屈?そうだけど、そうじゃない。わかるように、正確になるように、はっきり定義できるように、「しっかりと」説明しようとするほど、そこに城ができて、壁ができる。その壁が、かたいか、やわらかいか。
 フィーリングでわかれ、も乱暴だろうけど。でもこの世にはフィーリングしかない。「しかない」なんて言ってしまった。対立のもと。否定も、肯定も。なぜあるか。正確に世界を認識したいから?これはある、これはない。世界に理想や価値を求めたいから?これはイイからイジ・ゾウシン、これはダメだからカイゼン、あるいはショウキョ。それが世の中だし、人生。
 区分けのないイマジン的などこかへ到達したい、とかでもないけど。主客未分、とか、涅槃、とかもね。それを理想に位置づけて、目指しちゃった時点で。それも好きにして、か。ああ結局理屈っぽいし、気持ち悪い。わかろうとしたくない。考えながら、考えてないところにいたい。
 久保ミツロウさんとヒャダインさんのこじらせナイトというのがテレビでやってて。なんか鬱屈して屈折した青春の上履きで踏みつぶしたガム臭が凝縮された感じが絵面含めすごかったです。叶わぬ幻想を前にうらぶれてやさぐれるよりは、川本真琴のようにひとりぼっちになる練習するけどできないできないできなーい、って桜の中叫んでるほうが数百倍爽やかでいいなあ、と思いました。「ひとつになること」から醒め切れないもの、それが破られる段階にすら辿り着けないもの。うーん、神からすればどっちも迷える子羊って感じなのかも。