正しさについて Part3

 みんな「正しさ」とかそういうの好きだよね。正しくないと愛されない、許されない、あるいは正しければ愛される、大手を振ってどうこう言ったりやったりしていい、正しさに頼っていれば安心、という根底的な感覚なんだろうね。だろうねっていうか、自分もその辺の感情とかは割りと体験したから、それと一緒だろうと思っているだけだけど。
 だから、その面でわかると同時に、なんでそんなに信じられるの?っていう面もある。信じてるっていうのとはまた違うんだろうが。自分の場合、どんだけ道徳的に正しく品行方正にしていたところで、苦しみから救われるわけでもなかったし、まして魅力的に映る人たちは全然正しくもなんともない言動wをしていることが多かったので、そこに期待する気持ちって割と早い段階で無くなってた。綺麗事のような「正しさ」を持ちだして駄目出ししてきて人を断罪するくせに、正しくしていたところで幸せになるわけでもないし、正しくしていた結果自分がどうなったとしても責任を持ってくれるわけでもなく、最終的には全部自分のせいってことにされるんでしょ?って感じで、むしろ憎悪の方が勝ってた。それをはっきり言語化できるレベルで意識化したのは結構後だったので、それまでは感情的に諸々が渦巻いて余計に混乱してたが。
 まあそれはそれで、「正しさ」に対して反発という形で拘っていることになるので、人間の中にそういうものへの逃れられない依存?みたいな、強固なものが心理的に存在するというのは、あるんでしょうけどね。未熟な段階だと、かな。本当に「正しさ」(とかそれを発する相手)に何の期待も信用も持っていなければ、あんなことを言っておきながら、結局裏切りやがった!というような感情を抱くはずもないので。
 とはいえ、それが未熟であると言えるとしても、成熟しなきゃならない「正しい理由」があるわけでもないので、どれだけ「正しさ」に期待しようが反発しようがいいんだろうけど。そういうのを持ちだした方が現実上で有利に立てる、とかマスを誘導できる、とかもあるだろうし。使いようかな?その先に何がある?って感じもするけど。
 建設的に、どう「正しさ」と付き合うかを理性的に考えると、その限界性や有用性を認識して、自他の幸福に寄与する程度にしたがって、適宜修正できるところはするとか、その破壊性や怒りに関して少なくなるようにしたければする、みたいなことかな、抽象的にざっくりいうとw
 妙に長い割にはどうでもいい感じだな。こういうことを考えている途中で、標語のようなものが閃いたので、特に意味なく書き捨てる。「暗殺者にも対価は支払われる」