相対主義のこと

 「ハーバード白熱教室」の投げかける倫理上の問題だけじゃなく、他にもある思考の流れをきっかけにして集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)を読み返したりしたんですけど。やっぱり自分はかなりの程度相対主義、あるいはプラグマティズムよりの立場にあるんだなと思った。価値については多元主義的だし、事実についても可謬主義ってだけでなく、事実さえもパースペクティブに色々左右されると思っているし。
 ネットでそれこそ極端から極端みたいな色々な世界観を垣間見れば、誰でもそういう傾向は持たざるをえないかもしれないけど、自分の経験もそういう考え方を補強してる。十数年前はそれこそ生きるのって地獄だし楽になれるならいっそ終りにしたいぐらいの気持ちだったけど、今はまあ人生には面倒なことも苦しい感情もあるしそれは嫌だけど、少なくとも「今」は平穏だし一応それなりに楽しんだりもできているわけだし。ていうか実際に世界の風景、感覚というのが当時と今とでまるで違う。
 だから、世界というか世界観・世界像は単一のものではなく全然異なりうるし、一刻一刻の気分の違い、今日と明日の天気の違い、あるいは持っている記憶や知識の違いによって、同じ人間であっても確かに世界は違って感じられると思っている。凡庸な言い方になってしまうけど。
 「正しさ」についても書いてきたような考えが、それが全てではないにせよあるので、唯一絶対の真理や正義がある、打ち立てられる、とはそれほど思わないし、そういうのが超越的にどこかにあるとしても、全ての人がそれに従うようになる日なんて来ないと思っている。あるいは、「超越的に正しい」ことに全ての人が従っても、それは人によって何らかの点で異なるので、結局世界の光景は変わらない、とか。
 ある種の「正しさ」が嫌いなのは、それがそういう主張、立場であるというだけで肯定されて、それに相対する意見はそれだけで否定される、というありがちな事態が発生しがちだから。「正しさ」が先にあって、それを支える、守るために欺瞞が使われるし、反対意見はロジックや筋の通り方関係なく攻撃される。というかロジックがまともで説得性があるほど「正しさ」にとっては脅威なので攻撃を呼ぶ。それがもう気持ち悪い。
 と、そういう嫌悪は何らかの「正しさ」に拠っているのではないか、という論点が出るけど、それはもはやロジックや何かで客観的に支えられる「正しさ」ではなく、自分の内側で自分が支えるべき「価値」として現れるものなので、言ってみれば「おいしい」という感覚と同じ。違うのは、「おいしい」は自分の中だけで好みの問題として完結できるけど、「正しさ」は保持し続ければどこかで他者との対決・対立が生まれる点。だから、「試される」というか、そういう何か面倒な要素を含んでいる。
 まあ、だから相対主義といえばそうなのだけれど、先回り相対主義もどうかなとは思う。人間の本質があるかどうかは微妙だけれど、大体の人は苦痛が嫌なのは同じで、何が苦痛かは違っていたりするけど、抽象的な軸が成り立つ可能性はある。そういうところに何か善とか健全さとか幸福みたいなものの土台はありうるのかもしれない、というのは少しは思う。
 なので相対主義も簡単に肯定はできない。だからといって寛容さとしての相対主義も、メタ視点に立って関係を調節するための方法論としての相対主義も持たないのもどうかなと思うけど。こうやって相対主義も相対的に考えて絶対的なものもあるっちゃあるかもしれないしいつでも相対的なのもどうかね、という姿勢こそ真の相対主義なのか、それとも相対主義の風上にも置けないのか。その辺はもはや面倒だしどうでもいいです(というわけでもない)。