Get Physical

 書いてきた中ではあまり強調してませんが、身体的なアプローチも心を感じ取るにはけっこう有効だと思う。というか、直接感じ取る、リラックスする、という意味では、頭ばかりで知的に弄り回すよりは全然シンプルだし、実感を伴って効果が理解できる。いくら理屈が正確かつ網羅的であっても、言葉だけでは上滑りするし、やっぱりちゃんと理解しつくす(そして実践に活かす)のには大仰だし猥雑は猥雑、というところもある。なんていうとちゃんとした理屈を考えてくれた人たちに失礼かもしれないんだけども。いや、頭(言葉・理屈・知性)と身体、という二項で考えた場合にはどうしても比較的そういう弱点つーか勝てない部分があるよね、ていう話。
 そこへ行くと身体だったら、ストレッチぐらいのことを力を抜きながら、呼吸とかも少し意識して、身体のどこにどんな感じがするかにも注意してみたらわかること(過度な緊張など)もあるかもしれませんね、っていうのが基本だし、簡単。もちろん、ディープな方に行くと、ヨガだのなんたらテクニークだの方法論だの人間観だのがあるみたいだけど。まあそれはそれで知りたきゃ知っても役には立つか。あるいは頭でちゃんと理解した上で判断・信用したい、みたいな場合にもそういうのから入ったりするのかな。
 実際いきなり身体で直接感じ取る、みたいなのは難しい場合もあるんだろうし。自分もそういうボディワーク的なものを、よさそうだと思って、身体に注意を向けたり動かしてみるってことを多くしていって、結果として色々な不快な感情や感覚に気づいたり、それらが表面に現れやすくなったりしてきたと思うけど。それ以前は意識外に切り離していたことが多すぎたのか、なんか気持ち悪すぎる情動や感覚が現れてちょい面倒だったりもしたし、この感覚がいったい何なのか、感情なのかどうかもよくわからない、ということとか、言語化できないみたいなのも割りとあった。自分から探るようにしてたんだけど。
 入眠時に不安が身体の中だけでは受け止められない感じがあったりしたので、柔らかい毛布をぎゅうと抱きしめてそれに感情ごと受け止められる安心感を少しでも得ようとしたりしました。精神分析的には移行対象というものがあって、という知識を得たので、そこからじゃあやってみよう、という感じで。普通は幼児期とかにやっていたことを、大人になって確認する、とかだろうと思うけど、あまりそれだとわかるものを自発的にやっていた覚えはないな。妹がかなり大きくなっても指しゃぶりしていたという記憶はあるので、やっぱそういうところでの母親による安心感は自分含め不足していたのかもなあ、というのが認識としてありますが。とにかく、それをやっていたら効いたのか、そういう不安も今はほぼないかな、明らかに不安だ、怖い、みたいのは。そういう感情を託せる対象みたいなのは、何かしらあるのはいいってことだろう。ぬいぐるみとかでも。持ってないですけど。
 それから、プラスの感情が現れたときにも、それを否定するというか、押し留めることをしていた節があるのに気付いて、できるだけ感受するようにしたりとか。負の感情に限らず刺激的な感情の高まりから逃避しよう、停止しようとしているところがあるんだろう、と思った。まあそれは割りと誰でもあるんだろうけど。
 身体の中で、緊張や不安を感じる箇所があれば、そこやその生じている緊張に対してもいたわりを向けるのもいいかな。身体に感謝するとか、自分を愛する、とかだとそういう感性じゃなければ、胡散臭さがむわっと立ち込めてくるところがあるし、抵抗もあるけど、まあいたわる、ぐらいなら字面的にもそんな違和感ないし、愛するとか自己肯定とかそんな抽象的なこと言われてもわからねえよできねえよ、ともなりにくい。ちょっと気持ちを向けながら擦ってみるとか。
 ヒーリング音楽とか、雨音、水音、雷とかの自然音を聴いたり、海の生物の映像を見るのも、すっきりできる感覚があってよかった。やっぱり水は偉大ですよ、ヘレン・ケラーが言葉の世界に気付いたのも水が切っ掛けなんだから。よくは知らないけどw
 今のところ身体に働きかける系でやってみてるのはそういったことですかね。もっと詳しく書いてみたりもできそうだけど。とりあえずいいや。