信じた者勝ち

 なんだろう、結局のところ信じることができてないのがいろいろの根幹なのかなあ、と思えてきました、分析してると。
 何をかというと、自分とか、他者と世界とか、未来とか。
 別に、きっと世界は自分を故意に傷つける、とまで思ってるつもりもないけど、自分にとって辛いことが起こる可能性はいくらでもあるから、その個々の不安に怯えて、どうやったら低リスクになるかという構えが基本になってしまい、直感をもとに脇目もふらず邁進する、ような姿とは対極のあり方になってる、らしい。

 信じるのはつまるところ根拠がないことをきっと自分にとっていいもので、あるいは悪いことがありうるとしても、大丈夫だ、と思うことだから、これがベストか、いやあれのほうが安全でかつ面白いかも、いや多面的に考えるとこれがベター?みたいに疑って迷って、という姿勢は、合理的ではあっても、どこかで破綻する。
 というか、価値の無限後退だ。何かが「いい」ことに絶対的根拠はないから。金が多いのがいい?贅沢できるから、死や病気のリスクも減るから。でも、贅沢して病気にならない人生が「いい」ものだってなぜ言える?
もちろんそんなん極論あるいは空論です、けどね確かに。
 
 でも変な話、わけのわからない芸術作品作ってて誰にも理解も評価もされなくても、自分がその価値を信じているならば、それでその人の世界は完結できるんだよな。
信じていれば報われる、という話じゃなく。
 報われることはなくて、誰からも顧みられることもないどころか、馬鹿にされることさえあっても。まして死後に評価されるようなことも永遠に来ないとしても、その人自身が価値を信じられて、それに人生を賭けて、捧げて、死ねるなら。その世界は完成してるように思える。

 普通はそれを妄想とか狂気とかいうのかもしれないし、理解者がいなくてもどこかで価値の普遍性や絶対性を想えないと、自分にしか価値がない、自分だけの世界を信じるというのは無理なのかもしれないけれど。

 でもこの広すぎる世界で、自分の直感や「好き」みたいなこと、そんな美しいものじゃない何かだとしても、それを信じられれば。恐れるばかりのところでなくなるのは確かだろう。
 そんなに簡単じゃなさそうだけど、否定や批判は現実や他人が勝手にやってくるだろうから、それもないうちに自分で疑うのはできるだけやめてもいいかもしれない。
 その否定や批判を、それをしてくる他者や現実を、信じるか信じないかどうか自分で決めればいいんだしね、たぶん。

 それでも自信はそんなにないので、疑うし、信じられなきゃ信じなくてもたぶんいいんだけど。信じられない自分じゃダメなのか、という部分もあるけれど。とりあえず考えて書いたこれと、読んでくれる人のことは多少とも信じてみるか。