言葉の作用・副作用

 まあ、緘黙だったことやそこから派生する色々な苦しみとか、そこから生まれた恨みや世界や他者の重苦しい感じ方・認知とか、自己矛盾や何やら、鬱屈した感情や思考がこんがらがっていた、というのが自己理解で。書いたようなこと以外にも、いろんな思考や感情が生起している。そういう苦しみが一挙に解決したわけでもなく、少しずつ年月を重ねて良くはなっていたんだけど、比較的最近苦しみのピークみたいなものがあって、そこからはかなり楽になったみたいだと思えている、ということで。
 今だって外的にも内的にもまだ問題になりえる不安な要素は残っているし、恨みや否定的な自我の圧力が強くなるときもある。誰かからすれば、そのくらいのことで苦しんだとかwっていう部分もあるに違いないし。客観的にわかりやすく不幸だったかといえば、ほとんどのことは恵まれていたとしかいえない。
 道徳は欺瞞とか書いても、真心や良心みたいなものに直結した、行動の伴なうものももちろんあると思うし、欺瞞だからすなわち悪いとか要らないということでもない。今苦しい人が配慮されなくていいとか、自分がそうしないというわけでもない。
 こういうフォローをしたくなってしまう理由がはっきりしてきた。言葉で表現することは、必ずしもそうではないとか、この言い方だと言い表しきれていない、といった部分が自分にとっても他人からしてもいつでも生まれるし、そういう突っ込みがいくらでも可能なものだからなんだ。だからこそ議論による発展もあるんだろうけど。
 「言葉は完全じゃない」とか「理屈じゃない」みたいな言い方や考えって以前はあまりピンと来なくて、嫌な経験もあって反発も覚えていた。けど、いろいろと考えていくと当たり前のことだし、ここでこうして書くことの実践を通じても理解できることだなあと。他の人が書いたものがなんだか読みづらいときにも、ああこれを自然なものとして読めて、自分の言葉として書いている人がいるんだなあ、というふうに思う、嫌味ではぜんぜんなくて(笑 みなさんからすればお前のが読みづらいってことなんでしょうけど)
 自分が経験した感じ方や苦しさを誰かにそのまま渡すことはできないし、わからない人には一生わからない。それは誰かから見た場合の自分も同じだろう。そして現在の自分には、過去の自分のこともあまり鮮明にはわからなくなっている。書き残したものを読んで、ああそういえばそんな感覚だったっけ、とかすかに想起できるだけ。
 言葉は、ずれるというか取りこぼすというか、包みきれない。現実とは結びつかないところが出てくる。言葉は現実を生まないし、言葉がなくても現実は現実。*1
 ゲイとか同性愛という言葉があろうがなかろうが、自分が性的に惹かれるのが同性だということは変わりない。もちろん同性なら誰にでも惹かれるわけでもないし、それは細かく見ればすべてが唯一的なもの。
 緘黙だのって病名がなかったとしても、診断もされてなくても、そういう感じの状態だったことは確かだし、誰に何かをされたということでなくても、すごく苦しかったことは確かだ。そんなの大したことじゃない、とか言われようがなんだろうが。
 だからというか、ちょっと言葉を重視しすぎ、振り回されすぎじゃないかと思うことはある。しまいには、自分が痛いということも何かで検査して他人にラベルをしてもらわないと「痛い」と言えなくなるんじゃないか、と心配(というか不安)になる。というか、自分にもそういう感じはあって、あまりここに書かなかった時期があったのも自信がなくて不安だったからだ。
 だけど、こういう言葉があったから、自分はそういうものなんだ、と同定することができて、そして他にもそういう人がいるんだ、誰かにも通じることなんだ、と主観が社会的なものになったことが自分を結果的には救ったのだと思うし、それだって言葉のおかげだ。もちろん、その言葉を発した誰かのおかげでもあるけど。いろんな人の言葉のおかげで刺激されたり、独断に陥らずに済んでるんだと思う、結局自分が恩恵を受けている。感謝って自分にかなり欠けているものだと思う。たぶん怠慢です。ありがとうございます。
 いくらでも書き足せる気がするけど、ここでやめます。最後にちょっと引用。

 たとえば、私たちはある限られたキロ数のものしか持ち上げることができません。それ以上の重さはすべて、同一の名目(重すぎる)のもとに私たちには無縁なものとなるがゆえに、私たちにとってどれもおなじものになってしまいます。反対に、私たちはどんなに大きいキログラムのものについても欲するままに語ることができます。キログラムという語はどんな重さも持たないからです。
ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)

*1:当然、言葉が現実を生むことも、言葉も現実ということもある。