正義への意志

 NHKで「ハーバード白熱教室マイケル・サンデル教授の講義を見ました。面白かった。講義で説明される内容はある程度既知だったりもするけど、それを学生とのソクラテス式(とかいわれるw)対話を通して詳らかにしていく過程とか、教授のその腕さばきとか、学生たちの熱心さとかも含めて見応え充分でした。サンデル教授の雰囲気・身のこなしも異様にかっこよくて驚くw
 こういうトピックは自分も関心はありつつも、どうせ最終的に主観以上のものはないんだし、普遍的な道徳原理・法則・正義なんてそこそこのところで諦めて、法やら社会制度とかは、せいぜい明白に了解できる範囲の不満や不幸が最小限になるようにして上手く回るようになってれば十分だしそれ以上ないし、あとは各々の戦略とか価値観とか生き方の問題でしょ、所詮みんな理念の世界なんかじゃない現実を生きてるわけだから、みたいに安易でひねくれ感ありありのリアリズムに走りがちだった自分にも、ちょっとは普遍的正義とかその辺りを志向して考えてもいいかもしれない、と思わせる熱さはありました。
 なんというか、絶対的な答えがありえないからといって、匙を投げてあとは人それぞれだよね世間を生きる知恵でなんとかしようみたいな適当さがない。真摯に誠実に道徳について我々はこう考える傾向があるようだ、それは何故だろう?と問うていく。対立する意見を切り捨てたり丸め込むのでもなく、だからといってなあなあにするのでもない、答えなんてないはずなのに「何か」を求めている。何その真理への情熱と意志は。そういうのが学問なんだしとか、生きていく知恵みたいな妥協の産物とは違いますし違うべき、ってのはまあ、わかるけど。でも日本人にはたとえ教授でもあんまりなくないかこういう種類の情熱、傾向として、とか考えてしまった。わかりやすく表出されないだけかもしれないし勝手な偏見かもしれないけど。いわゆる客観的事実があるとされるものについてはそうでもないだろうけど、こういう倫理的な問題(あるいは哲学的問題)について日本人が冷静にかつ熱意を持って論議している姿って見たことがあっただろうかって。身近で目にしたことはあまりないような。
 もちろんそうできる人は日本人でもいるし、できない人は欧米人でもいるだろうけど、そういう表面的なこととはちょっと違うところの何かを感じた気がしないでもない。
 とはいえ、学生が「自分の意見で、違う意見の人もいると思いますが」という言葉を付け加える場面もちょくちょくあったので、アメリカ人もそういう方向への意識はあるんだなあ、とは思いましたが。印象としては女子学生が多かったかな。
 ミニョネット号事件の例を出して、食べられる人にも何らかの同意があれば道徳的に許される、とか、誰が食べられるかを決めるのに公正な手続きがあれば許されうる、といった論点が提出されたのは気になりました。その辺を考えたことはそんなになかったので。確かにそれらのあるなしは大きいかーと思って考えたりする価値はあるかなと。
 英語でならJustice: A Journey in Moral Reasoningでも同じ内容(おそらく)の動画が見られるようです。