苦しみへの郷愁

 人は自分の苦しさが大事で、それを色々な仕方で語ったり考えたりするけど、結局それによって苦しみを支えている、というのは結構普遍的かもしれない。とか思う。いやべつに普遍性は問題じゃないけど。
 苦しいと言いながら、その苦しみをある意味で手放してない、大事にしてるのは自分なわけで。それに気づいたからってそう簡単に手放せるものでもない。距離は置けるとしても。
 自分も、助けてもらえなかったとか、最終的には自分が苦しんでもどうでもいいんでしょ、というような考えや態度をどこかで「支えて」しまっている。
 単純に事実や可能性として考えれば、苦しもうがどうでもいいから助けない場合だけではなくて、気づかなくて助けられない場合、もあるし、助けたとしても助けられたと主観的に感じられない場合もあるし、それらの余事象として助けられる場合もあるし、それらはそういう事象としてみればフラットで、どれが起こるかは人と時と場合によるってだけで。
 ただ、「苦しくても助けられなかった」というのを自分が主観的に苦しさの感情として感じて、没入しまったので、そういう想いに巻き込まれやすくなっているというか、そのパースペクティブスキーマで世界を見てしまうというか。
 例えば飢えとか戦争だとか拷問だとかの苦しみからすれば、さほどの苦しみではないかもしれないのだけど、自我はそんな公平にみんなの苦しみを見渡すわけないし、自分の不平・不満足・ネガティブ感情に固執する。
 怨恨とかルサンチマンというか。それをどう処理するかで方向性が変わる、というのもあると思う。
 自分は全部自分のせいだといえばそういうことにもできるし、助けたくなければ助けなければいいし勝手にすれば、と処理したけれど、こんな苦しみを与えたりそれを救わない社会やら親やら何やらは酷いとか、こんなものあるべきではなく是正されるべき、という正義の方向での処理もある、と思う。
 過去の不遇感や劣等感、に固執して、それを語ったりするけど、そこから解放されるわけでも、幸せに向かっていくわけでもないというか。いや、幸せに向かっていくとしても、それはその苦しみに根ざした円運動になるというか。
 つまり容姿の問題で劣等感に苦しんだ人が美しくなることで、その苦しんだ価値次元で、「勝つ」ことを目指すような事例だとか。いじめられたとかそういう人が、「勝ち組になって、幸せになることで、奴らを見下す立場になって見返してやる」とかそういう思念。
 そういうのって、それを達成して幸せになれるかどうかはともかく、少なくとも「自由」ではない感じがして、息苦しさがあって、重苦しい。そして、そういう心理動因で結構な数の人が動いているのだとしたら、なんだか不毛だと思えてしまう。自分がそういうのから逃れているとは言い切れないけれども。
 たとえ不毛だとは感じない方向にいけたとしても、でもそういう苦しみの記憶は消えずにどこかにあって、反応や行動、思想を形作る。本当はそんな苦しい記憶や感情はすべてクリアーにできれば、それが誰にとっても楽なんじゃないかと思うけど、そういう仕組にはあまり成っていないような感じがしますね。