正しさについて Part2

 そもそもが何かが「正しい」からってだけでそうなれるっていうなら、みんな聖者で犯罪もいじめもあるわけないし何の苦労もないわボケ、って話で。なんか酷い目にあっても恨んだり仕返ししたり、あるいは自己憐憫したり被害者ぶったりするのはよくないです、そうでなくそれを糧にして他者に優しくしたり前向きであるのがよいのです的なメッセージを持つような物語とか道徳観とか、そういうのが美談みたいに語られるのを見て不愉快というか嫌な気分になっていた。というか今もものにもよるけどなる。
 それはお前らからしたら騒がれずに済んで都合がいいし人間って美しいねとかいって肴にできるっていう話でしかないだろうが。たとえある程度いい人っぽい人がその手のことをいってたとしてもまあ心の美しい道徳家ですね、ていうような感想になる。いや、その苦しみの当事者が本当に自らそういう在り様をしていたら(たぶん)尊敬できるけど。
 本当にそういうふうにあることがなんというか善なる正しいことであったとしても、それを外側にある「正しさ」として提示されたところで、そうする気には、少なくとも私はならない。
 だから、正義とか道徳みたいな「正しい」ことを提示してくる何かというのは、種類を問わずどこか忌避感があるし、あんまり信用していない。そういうのを自らが従うべき規範としているか、具体的な誰かを守るために正義を掲げるか、っていうのでなければどっかに欺瞞めいたものが入り込むと思う。
 すごく尊敬しているというか、好きな文章を書く人がいて。もちろんその人のことは文章でしか知らないけど、自分の印象では、その人は欺瞞から遠いな、って思う。その人が書くことには、一般的な倫理基準(そんなものあるのか?)からすれば問題あるとされそうなことも含まれていたし、毒舌っていうのも違うと思うが、そういう風に捉えられうる内容のこともまああった。
 でもなんかそういうことではなく、何かを否定するにしても外側にある「正しさ」とか権威的に保証されたものに寄りかかっているのではなく、何もかも自分の感性に基づいて気持ち悪いとかバカだ、とかって言っていた。もちろんその感性が自分になじむものということもあるとは思うけど、だから好ましかった。否定されるものに自分が含まれる場合でも、そんなにまで嫌ではなかった。
 何よりも面白かった。自分ならショック受けたり不安に苛まれるだろうなという状況や、その人自身が辛い状況のこともすごく笑えるように書いていて、そこもすごく好きだった。なんか、なんでそんなに根本的にやさしいのかというか。やさしいというかそれも違う気はするけど。
 学識だとか難しいことがわかるとか、そういうことは(表出されている内容を見る限りは)ないけど、そういうのではないところの知性があるんだな、って思う。
 だからというか、その人みたいなあり様というのは一つの理想ではある。もちろんその人と同じようにはなれないだろうし、真面目というか重苦しく自分の苦しみに注視する自我というのもなくならない気はするけど。
 えーとだから、なんだっけ。父親がいなくて友達とそういう話になると困惑するという中学生に非常に優しい語りでアドバイスするカンニング竹山を見て、なんかお笑いとかウィットとかユーモアっていうのは、そういう知性が根底にあるんだろうか的に思いました。エリスとかもあまり真面目はよくないという趣旨のことを言っていると書いてあったし。
 つーわけで、ちょっとリラクセーション怠ったからか体調か現実のせいか、重い気持ちや不安があったり孤独な夢とか見たけど、気負わないようにしようと。