どこにでもいて、どこにもいない

 『もっけ』を読んで、妖怪というのは人が生きていく中で出くわす「問題」みたいなものを比喩的に実体化している、そういう側面があるようなものなのかな、というようなことを考えた。
 その人の人生の問題、その人の心や身体の問題みたいに考えられがちなものも、その人を取り巻く周りの環境とか人間関係とかそういう色々な繋がりから切り離すことは結局はできないというか、何かしら互いに影響を与え合って、かなり境界の曖昧な「問題の環」みたいなものを形成している、というふうに捉えることはできると思う。
 ここまではその人の問題で、ここからは社会や環境や他人の責任で、というふうに処理しないやり方というか、そうできないこととか。たとえば、いじめみたいなものについて、いじめる方が悪い、いじめる方の問題だとして、でも現実それが消え去ってくれるわけではないから、いじめられる側や周りが何かしらのアクションをしなきゃ解決はしないんだよね的なこととか。それにそこだけを取り上げれば「いじめ」っていう一つのわかりやすい事象があるだけかもしれないけど、もっと構造的なものの作用とか、あるいはそれぞれの家庭の問題、とかも関わっているのかもしれない、とか。
 東洋的な考え方といえばそうなのかな。「問題」というものの、そういう曖昧で捉えにくい、割り切れない性質を写し取ったものが、妖怪で、それを「あるもの」とすることで問題を上手く乗り越えたり、上手く付き合っていったりするための存在なのかな、みたいな。
 そんな人間の問題なんて特に関係ない妖怪もいるとは思うから全部がそうでもないかもしれないけど。読んでてそういう側面もあるといえばあるんだろうと思った。なんか書くだけ凡庸な意見だな。いや、特に新しい考えをした、という気はないけどその時に考えた閃き感がなんだか褪せてしまうなと思いまして。
 西洋的な思考とか科学だと、これは何についての問題でとか、境界線をはっきりさせるとか、言語や論理で何もかも整理して割り切るみたいな印象が強い。どんな問題でも、いくつかの要素があって、それらが単純にしろ複雑にしろ関わり合うことで現象が成り立っている、といった捉え方なのかな、みたいな。還元主義とか分析的思考って言われるものかな。よく医療で西洋は部分部分を個別に考えるけど東洋は全体の調和を見るとか言われるけど。
 自分の心理的な問題も、緘黙とか認知療法とかの枠組みで見ることももちろんできるけど、「憑き物」っていうふうに捉えることもできるなあと思った。まさにそんな感じだったし。色々考えたのは確かだけど、単純に思考で解決したっていうことでもない気がする。長いスパンの時間の経過とか環境の変化、自分の発達・成長とか様々な局面があって、だからこそ解消した、という気もする。
 それに、そういうのが消え去って現在は何の問題もなくなったということでもなく、これから関わる場とか直面する事態によって周辺的な問題となって現れたりするのだろうし。それを考えると、憑き物とかそういうあれでも違和感はない。自分も、行動や生き方はそれほど合理的とか論理的とかいう人間でもないし。幽霊とか妖怪を見た、感じたという経験もないですけど。
 まあ、よくわからないし適当に考えてるだけですが。最近世界にはいろんな捉え方とか見方がある、いろいろな世界観の前提や感性があるとかそういうのに傾きすぎてて、しっかりとした思想的基盤が持てませんどうしよう。どうもしないけど。
 書いてる途中探して少し参考になるかもと思った→Passion For The Future: 木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか