乗っ取り乗っ取られ

http://anond.hatelabo.jp/20090829150955
事実だとはあまり思えないけど、一応可能な事態ではあるし、それが可能であることの持つ意味とか考えさせられて面白いなーと。確かに書いている内容が類型的であったり思考や認知が手に取るようにわかるものであるなら、それを言葉の癖も込みでトレースして続きを他人が書くことも可能ではあるのだろうから。才能や技術が必要だろうけど。
ネットでブログとか文字だけで表現する場合は言葉だけから人格がつくられるから、思考や認知が本人の身体からは切り離されて存在できる、だからトレースできるし、入れ替わることもできる。その辺りに不思議な感じがした。入れ替わったままでも、この記事みたいに本人が気付かなかったりどうこう言わない限りは、オフ会に出ようが「あのブログを書いている人」という認知でリアルの知り合いができようが、矛盾や瑕疵は特に生じずにずっと入れ替わりを維持できる、というか、それがもはや入れ替わりですらない感じというか。
現実で他人になりすまそうとすれば、どこかしら辻褄が合わないところが出るし、本人だって黙っていられないだろうし、とにかく結果として世界に何らかの問題とか歪みみたいなものが現れると思う。なりすましをし続けて何の問題もない、ってこともないだろう。でもこういう場合なら、何の問題もないまま世界が回り続けることもできるんだということに、違和感、いやむしろ達成感というか言い難い感覚が。この違いは、やっぱり身体の取替えられなさが関係するのかな。顔や声は普通真似できないから、それらを根拠にある人と違う場所や時間に会っても同じ人だと考えるわけで。だけど言葉はそういう代替できないものに依存しない、独特なものから離れたものだから、真似できるし、乗っ取りの可能性も上がるのだな、と。
ネット上での人格も、日常で人と対面するあり方とは色々と違うからあれだなとか、入れ替わったまま「そのブログの人」として生きているともともとは違う性格や考えも侵食されてしまうという奇妙な物語的な展開とか、そもそも人間そんなに確固としたものでもないよなとか、でもトレースできるってことはそういう思考を包含できている人格だということだから別に問題ないのかとか。
あと、乗っ取りではないけど、書いたものをコピペされた人が憤りを書いた記事のことを思い出した。その人は何でそんなことするのかわからないと書いていたけど、多少わかる自分は苦笑した。面白いことを書ける自分、として見られたい、という気持ちがあるのだと思う。その人の書いたものはとても面白かったから。なら自分で面白いこと書けよ、というのが真っ当な考えなのだけど。卑屈と自己像と承認欲求と怠惰の結果みたいな。その辺りを考えると、この記事みたいなことも本当にあったことなのかもしれないなあと。