他人が嫌、ていうか。というとざっくりしすぎていて間違いになってしまうし、昔からすれば十分(ではないとしても)変わってきてもいるけど。あんたらの見方で勝手に自分を計られて、自分が了承してないことで、どうこう言われたり、変な目で見られたり、受け入れられたりそうでなかったり、現実上で振り回されるなんて嫌だ。それが現実だし、気になったり実際に問題があるならお前がどうこうすべき問題だろ、とか言われたって。自分としてはそれなりに頑張ったり勇気を出してやったことや、特に問題ないと思ったことだって、他者からしたら不十分だの足りないだのイマイチだの善さに欠ける、変だ、って判断される。あなたたちの都合であるとか価値観のフィルターとか単純に見た目の印象とかそりゃあるでしょうよ。でもそんなのにどうやって合わせろっていうんだ。そっちが狭量なのかもしれないし、どこまでが対処できることなのかもわからない。
 まあもちろんそういう否定ばかりや寛容さの欠片もない判断をする人や対象ばかりではないのは、解っているつもりだけど。でもそういうのがあると、苦しくなるというか、吐き捨てたくなる。ずっとそうだった気がする。自分を否定してくる何かがあることに耐えられなくて、そういうのにばかり反応して怯えたり怒りを覚えたり心を閉ざしたりしてきて、そういうものがどうにかならないか、自分が悪いのか、あいつらが性格悪いのか何なのか、なくなってほしいのになくならない、苦しいとばかり思って生きてきてしまっていて、そんなのほっといて、好きとか寛容な視線をくれる人を好きになってその中で楽しむとか自分が好きになったものに近づくとか、そんなことはできなくて、そもそもそれができるとかもあまり思えないししたいわけでもないのではないか、って思っている感じだった。プラスを求めて動くとか楽しむよりもマイナスからいかに身を守るか、なくせるか。もうそれが無意識レベルで世界の見方に作用しているって気がする。それをやっと俯瞰的にも自覚できてきて、少しずつ解消しているっていうか。でもそれもある種の思い込みで、ホントは自分に心や見方以外の問題があるのかもしれない、たとえ自分の心や見方自体がよくなったとしてもやっぱり変に見られたりダメと評されるだけの何かがあるのかもしれない。だとしても、面倒くさい。それが一朝一夕で変えられる何かならどうこうできても、何がそんなに悪いのかもわからないのに。
 何がそんなに気に食わないんだろう、とか、浅すぎる価値観に基づいた言動とか、答えありきで否定するとか穿った見方をするとか、そういうものもめんどくさいというか苛立つというか。彼らには彼ら自身を中心とする愛と都合のフィールドがあって、だからたとえば自分が彼らに安心を与えるだけの笑顔や自信のある雰囲気?や何かを纏っていたりそれを提示できれば彼らだって安心度合いが高まるのだろう。私が拒絶や不信の目を向けられた、と感じる場合、おそらくは彼ら自身も、私から戸惑いとか拒絶とかいわゆる「壁」みたいな、警戒の雰囲気を感じ取っていたりもするのだろう、私にそうするつもりがなくても。もちろん、そういうのに鈍感、というのか、基本的に愛や安心感に満たされているのか、こちらが多少そういう部分を持っていても殆ど気にしない感じの人もいるし、慣れがそれを打ち消していく場合もある。あるいは基本的に親しい交流はしない、という儀礼的無関心みたいな関係性に固定された場合も、面倒な感じは減る。
 面倒くさい、気付いてすぐに変えられる、どうにかできることだったら楽なのに、そんな風にいかないのが。そんなことが生きることに不利に働いてしまうことが。そんなものを背負わされてしまったことが。なのに誰もわかってもくれない、どころか敵視されることもあることが。
 まあ結局そういう否定の目を向けたり、非難の言動をするような人は、同じものを自分の中にも見ていてそれを許さない、同じ怒りを向けている、あるいは恐怖を抱いているってことなのかもしれないけど。
 あーなんか、他者に温かい視線を向けるとか、好意ある、受け入れるような?態度を向けるとか、そんなことほぼできたことがないような。でもそんなのしようと思えばできる、ってものでもないな、自分の場合。っていうかそれって何、って感じというか。イメージや他者からされたものはあっても。かわいげとか愛嬌とかね。…アホらしい、なんでそんなことばっか考えてどうにかしようとしないといけないんだ。でもそれで上手く行かなくて苦しむのも変わらなかったら嫌だ。