甘えがどうとか

 「なんたらは甘え」とかって言い草はいくらでもあるけど、甘えだからなんなんでしょうね。そんなのつまるところ甘えられる側が甘える人の甘えを許すか許さないかでしかなくて、甘えられたくないなら見捨てるなりなんなりすればいいだけ、というかそういう選択を受け手がするだけのことじゃないのかな。「逃げ」とかも同じような感じ。
 甘えだから悪いとかいう評価を含意してる言い方を見たりするとその辺違和感があったり。甘える自分かっこ悪いとか、いい年して甘えやがってとか、そういう評価はあるとしても。それだけといえばそれだけじゃん、というか。
 「甘えはいけない」みたいな前提はどこで刷り込まれてるんだろうかって思う。甘えたければちゃんと技術を駆使して上手に甘えて、甘え方が上手であれば双方よい気持ちで甘えられるし甘やかせるし、甘え過ぎに見えれば非難の目が向けられるだろうし、甘えられやすい個体差や状況や立ち位置の差もあるから不平等感を煽りやすいとかあるけど、その辺のリスクとベネフィットのバランスでどうするか、だけの話のように思えたり、もちろん思考の上だから実際はもっと複雑になりえるんだろうけど。
 なんだろう、強者弱者とかそういう話にも感じることがある。正義とか権利とか義務みたいなところが強調される印象があるけど、そういうのはせいぜい理念とか法的な話じゃないかっていうか。それらを差し置いても、根拠なんてなくても、弱い方がうまく甘えて、助けたほうが変に恨まれたりしないし良い人ってことになるから、それで適度に甘えさせればいいし、とかのほうが、日常とか現実のレベルでは上手く回る気がする。助ける義務なんてないとしても助けなかった場合、恨みが出るようにできてるんだから、人間は。たぶん。
 もちろん現実の状況はいろいろ重大さの違いもあるだろうからそんな簡単な話じゃないかもしれないけど、自分を鑑みても、甘えるのも甘えさせるのもいまいち下手なんじゃないか的に思ったりする。
 自分の苦しみは結局甘えなのか的な自責感とかあったような覚えはあるし、そういう深刻さも自分なりにわかるにはわかるけど。でもその自責って結局意味あるのかって思う。「甘えは悪い」みたいな思考の前提さえなければそれほど感じる必要のないことじゃないのかなと。*1そういうのって実際の状況の(共有可能な)重大さにもよるんだろうからあれだけど、重苦しいだけで要らないといえば要らないよなあって。自分はそういうのからはできるだけ逃れたい、今は。
 まあほんと考えの上でしかないから簡単に言ってんじゃねーよ、だけど。そういえば「甘えの構造」一度読んだけどどうだったか覚えてないや。

*1:あ、そうか、甘えが悪いかどうかじゃなくて、自分にとってのすごい苦しみが結局甘えと呼ばれるもの、甘えみたいなものでしかないのか、ということがその時は耐え難かったのかな、たぶん