道徳のことを考える(2)

 あれだけ書いてまだぜんぜん本の内容に触れてないんですけど、あと他に自分の考えを付け加えると。いろいろファクターはあるにしても道徳的にいいとか悪いとかいう評価に全く一致が見出されないわけじゃないし、その場その場でそういったことが問題となる領域において、そういう判断を下していくことに社会的な意義や機能はあるはずで。
 ただ、道徳的な評価をすることって、それに明確な意義やなされるだけの理由があって、それを行うことでその関わる人たちによい結果を生み出す、のであればなされるのが望ましいのだろうけど、なんかそういうんじゃなく、無目的にいいとか悪いとかを発するのってどうなんだろうかと思う。
 現実に善悪が張り付いてるような認識と、それにひどく反応するような行動とか。それだと怒りも恨みも対立も無駄に出る気がするし、そんないいとは思えない。基本的に現実自体はただそうであるという認識というか、無評価、少なくとも事実と価値とは分離しておいたほうがいい気がする。だって良いとか悪いとか言うこと自体が意味を持たない、あるいは何か不毛な結果を出すだけに終わるならやらないほうがいいじゃないですか。いや、まあその辺の価値をどう見るか、何を不毛とするか、ということこそそれぞれの価値判断なのかもしれないけど。でもその辺りで見誤ってるんじゃないか、と思うことはある。
 それからあと、道徳的評価が一致しうるといえるとして、だから何らかの規範はある・成立するとしても、それが「正しい従うべきこと」だとして、だからといってなぜ従わないといけないのか、という問いがいつでも出せる、というまあ根本的なお話があるじゃないですか。とかって書いてたらいつまでも続いてしまうのでこの辺で終わりにしよう。
 えっと、本によると、主観主義というのは道徳に「事実」はないし、誰も「正しい」わけではなく、ただそれぞれの個人的な意見や感情があるのだ、という考えのこと。で、この理論が批判を受けて洗練され発達して、単純な主観主義から改良され情緒主義に至った。単純な主観主義によれば、「Xは悪い」「Xは間違いである」「Xは正しい」などの道徳的言明は単に話者が何かを是認する、否認するということを意味しているだけだ。
 この考えだと、「Xは悪い」と言った人は「私はXを否認する」という意味のことを言っているだけなので、その言明は本心を語っているのであればいつでも真であることになる。つまりこの考えによれば人は道徳的判断において無謬である。だがそれは常識的に考えればおかしく思える(人は自分の判断が間違っていたと考えることはある)、というのが一つの異論。
 また、AとBの二人がいたときに、Aが「Xは悪い」、Bが「Xは悪くない」という意見をそれぞれ持っているとする。二人の意見の間には不一致がある、と通常考えられる。しかし、単純な主観主義の理論で考えると、Aは「自分はXを否認する」、Bは「自分はXを否認しない」と述べたに過ぎない。では、BはAがXを否認している、ということに同意しないだろうか。そのはずはなく、AがXを否認していて、BがXを否認していないということは両者ともに同意する事柄であることは明らかだ。それならば、AとBの間に不一致はない、ということになってしまうが、それはおかしい。これが第二の異論。
 これらに対して、情緒主義では、道徳的言明は事実についての報告や陳述ではなく、命令や態度の表明であると考える。なので、「Xは悪い」とは「私はXを否認する」という事実を述べたり報告するものではなく、Xに対する態度を表明するものである。だから、一つ目の異論は、真偽が問題にならない情緒主義には通用せず、二つ目の異論は、二人は態度についての不一致がある、ということができる。
 しかし、道徳的判断は何らかの理由によって裏付ける、正当化することができる、ということを情緒主義にしても、主観主義は説明できない、という問題がある。道徳的判断は何かが好きである、といった言明とは根本的に異なっていて、正しさを説明できるものなのである。
 というのが概要です。えーと、まあ。面白いんですけど。書いている間にこういうことを考えたり書いたりするのが面倒というか、少し醒めてしまいました。さらにこれを踏まえた考えとか書く気だったんですけど、とりあえず置いておいて、また時機が来たら書くかも、ということにします。別にこんなこと言わなくてもいい気はするけど、ちょうどいい区切りができなかったもので。