みたいなイメージ

 たぶん、善も悪もあるんだろう。普通に。ただそれは、これこれの行為や在り方が悪ですよ、これこれが善ですよ、と規定されて、誰もが善なることのみを追求し実行し、悪なるものは忌避し、場合によっては殲滅すれば、世界が善きものに満たされる、というものではありえない。いや、そのような善悪があるとしても、それは何らかの共同体・体系内の秩序、ルール、達成目標のようなものとして存在するものでしかない。
 同時に、哲学的または科学的な探求の果てに○○主義が善悪に関しての問いに完全に答えうるものだ、と判明する、善悪の究極的な根拠を見出す日が来る、というものでもないだろう。それらは人が善を感じる傾向、や善についての判断が分かれる点において、意見・立場の相違を言葉で洗練したものではある。しかし、それは各様の善の現れに対して名付けをした、その特徴をそれぞれの立場から描写・分析し、限定的な原理に還元したものでしかないように思える。
 人は「あの人は誰に対しても平等な扱いをするから善い人だ」というかもしれないし、「あの人はこれこれの能力が高いから善い人だ」あるいは「私たちにこんなにも幸福を与えてくれるあの人は善人だ」、「あの人は全くブレない自分の信念を持って理想を追いかけており、その生き方は善いものだ」というかもしれない。そして、それぞれの「〜だから善(と判断した)」という考えを○○主義と名付け、それぞれを善についての相容れない立場のように考えたりする。しかし、それらは恐らくその人の「善性の現れ」ではあっても、善そのものではないだろう。行為や目に見えやすい在り方をその人の人格から切り離して評価しても(そうするほかないし、そうであるのがいいのだが)、それは善そのものではない。だから、善や悪そのものは「見えない」。
 善はむしろ、生々流転していく世界において変容や意思を通じてかいま見える輝きのようなものではないか。弱さや葛藤や対立や絶望といった闇や混沌を苗床として、それは芽生え、成長し、花咲くこともある。泥から姿を現す蓮の花のように。その周りには、枯れていき、腐っていく種子や苗木もある。また別の種子や苗から、養分を奪い取り咲こうとするものもあるだろう。善はいつでも悪に依存している。その意味では悪は生そのものでもある。
 なーんてね。いろんな受け売りその他を元にした、現時点のなんとなくのイメージというかラフスケッチ。