誤解と認知

対人スキルの低い奴が、誤解している7つのこと。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090824092326
ブクマ数がすごい伸びてる。
これらの項目って認知行動療法で言われる不合理な信念とか認知の歪み、スキーマといったものがどれも関わることなんだろうなーと思う。
誤解って書いてるんだけど、必ずしも誤解じゃないというか、(1)〜(7)はどれも正しい場合、現実に当てはまる場合もあるんですよね。ただ、それしか見えていない、そういう考えのみで現実を解釈してしまう、ことによって恐怖や悲観に苛まれて、人と接するのもうまく行かない、ということであって。

(1)人間は、「いじめる側」と「いじめられる側」に分かれる。

これは、実際人はいじめる側といじめられる側に置かれることはあるわけなんだけど、それがいつでも誰でもそうであるかのように考えてしまうのが行き過ぎという。
いじめの構図で捉えるかは人によるだろうけど、何かしらの序列関係で人の集団を捉えているところがあって、それで自分が下に位置するという意識がある場合はあるのかなあと思う。自分はそうだったかなと。といっても通常の言葉や思考でそうだって思ってたというわけではなく、もっと深いレベルでそういう認知になってしまっていたという感じだけれど。

(2)変わるのは、恥ずかしいことである。

これも、恥ずかしいと思ってしまうのは、別におかしくないというか、誰だって今までと違うように振舞うことは、恥ずかしいと感じることはあるわけなのだけど、ただ恥ずかしい思いをすることに対する恐怖が強すぎる、というのが乗り越えがたい部分になってしまう場合があるだろうなと思う。

(5)見下されるのは、恥ずべきことである。

見下されたからといって、どうということもないのだ。

「どうということもない」と納得して本当に思えればそうなのだけど、「どうということもない」とは思えない状態だから問題なんですよね。この記事自体が自動思考への反駁、にはなってるから念頭に置いて実際に人と付き合えば、恐怖も薄れていくとは思うけれど。

こういう話は、「他人は自分を気にしてない」とか「自意識過剰」「考えすぎるな」って言葉でまとめられがちだけど、それを心からそうだと納得して「だからそれほど恐れることはない」って実際に思えて、実際に恐怖を感じなくなるには、もっとしっかりした納得や経験が必要で、ただ言葉でそうだよなって思うだけだと、「他人は自分を気にしてなんていないのに恥ずかしくなる自分はおかしい。自意識過剰な人間だ」みたいになってしまうこともある。

ブクマで気になったのは、

いじめなどの人間の力関係で非コミュになった人にはあてはまるものも多いのだろうが、自分のように「初めから他人とそれほど関わらない」人間だとあまりピンとこないかもしれない。

知り合いにそういう感じの人(他人に興味がないと言っていた)がいたんだけど、その人は対人に不安とかがあるわけではないようだったから、実際のスキルはそれほど社交的というわけでなくても、認知は平常みたいだった。というかその人を見て自分の認知が治ってきた部分もある。

あと、プライドが高いとか自分を特別視、というような反応があって、こういった認知にはない人からはそういう風に解釈されることがあるんだけど、特別視したくてしてるわけでも、自信とかプライドがあるわけでもなくて、逆に自己評価が低くていろいろ不安だから、そのようには見てない他人から見たらおかしなことになっているだけなんですけどね。
他人のことはわからないものだけど、理解できないからといって悪意的に解釈するのもどうかなと思う。

こういうのを変えていくのは認知行動療法を参考にするとやりやすいのではと思うので、リンクしておきます。
FrontPage - cognitive
http://psych-toolbox.hp.infoseek.co.jp/