ある分野で、(簡単にいえば)社会的に成功している人と、してない人とがいる。もちろんその判断は、そんなにくっきりと解りやすいものでもない。それがどういう文脈であれ評価や注目を受けているか、そうでもないか、それによってその身や地位を立てられているか、照らされて浮き上がっているか、といった点を考慮すれば、その「成功」や「失敗」にも色んなグラデーションや起伏があったりする。そういうと、何か金勘定やらステータスやらに関する話だと思われるかもしれないけど。それらを含めつつも上空から生きてる人々を鳥瞰したときの、ある種の人生の岐路の違いがあるんだなあという想いを抱く。
 単に専門的な素養とかスキルといったものについては、必ずしもそう大したものがあるわけでなくても、強い感受性があり、それを表現する力を持っていることで、人を惹きつけたり、善いものを見せることもあるし、四方八方から現れる有象無象に見られて、評価されるし、浮き上がる。一方で、素養やスキルといった点では、一定以上のものは身についていて、才能や情熱においても非凡であると思われるしそれはその道のプロからも評価されるほどであったのに、タイミングが悪いのかはたまた世の人に見る目がないのかw、日の目を見ないまま、表舞台からは去っていくような人もいる。もちろんそういう人はそういう人で別の場所やらで活躍していたりもする。
 なんとなくぼかしてしまったけど、何のことかというと、念頭にあるのは音楽の分野です。単に自分が一番多くメディアで触れているのでそういうのをちょっとだけ感じただけで、似たようなことはどこでもいくらでもあるんだろうけど。少なくとも芸術・芸能系だったら、同じようなことは起こってるんでしょう。そもそも表に出るとか評価されるとかまでも行かない数多のワナビーやアマチュアについては置いておくとして。
 といってもそれは、自分が基本は受け手の立場で、その表に出るような人たちを、高みから見てるからこそ抱くある種の感慨でしかなくて、実際にやっている人からすれば、何らかの比較意識やメタ意識はあったとしても、それぞれ自分のやれることややりたいことをやってるだけなんだろうけど。例えば映画『アマデウス』ほどの嫉妬劇が現実にあるわけでもあるまい。まあ、こういう成功や失敗、才能のあるなし、評価の正否、それらに翻弄される人生、というのは人間にとっての一大問題を成すテーマ群ではありますね、とお茶を濁したところでまた。

 虚しい言葉と思えど書かずにいられなくてもそこはかとなき後悔を抱くこともなくただ連ねることしかできず表したい思念など無くて。恨むとか後悔なんていうほどないし、妬んだり悲愴な苦痛も大体過去だし、ただなんとなく思い違いのようななんかしなきゃ気が収まらないような衝動というか脳髄の苛立ちがあって、それは何かしら書き散らしたら治まるのかわからないけどでも別にそれがどうということもない。たとえば愛憎ドラマだとか、アメリカンサクセスストーリーとか、何かの天啓のように明日から壮大なストーリーが始まるとして、それによって何かが満たされたり昇華されたりするのかどうかっていったら、そこまでの何かがあるとも思えないけれども、ただとにかく声を発したいだけだし、秩序立たせる必要もないほど馬鹿げているなあ世界はと思いたい、のでもなく。誰かと関わって話して共有して面白いとかあるけれども、所詮は世界を異にしているのであって、説得なりして何らかのことを解らせるといってもまあ限界があるというか、そんなことが本当にしたいなら専門家なりプロが書き下ろした秀逸な描写や優れたエンターテインメント性にも事欠かない正鵠を射た本でも何でもいくらでもあるんだから、それで大体は事足りるんじゃないですか。お前の話なんて特に聞く必要ないですよ正直、ってとこですよ。愛に飢えた人間がやさぐれてる、とかじゃないんですよ別にコレは。そんな高尚なことじゃないですちっとも、これっぽっちも。誤魔化さないでください。大体嫌なんですよアートだとか表現とかそういうキモチ悪い言い方。馬鹿らしい。そんな表現とかどーとかいうほど人に見せるだけのもんがあるんか、っていう。いや見せるのはそりゃ見せたけりゃそれが素晴らしいアートだろうが悪口だろうが何だろうが自由にしてくださいよ、ただ見せたいのかよ何でだよって話じゃないですか。別にくだらないもの見せんなとか、お前のそれは何か見せるだけの価値があんのかとか、そんなジャッジする偉そうな目線での話ですらなくて、あ、それ見せたいんですか、へー何でですか、っていうものすごい普通のトーンで繰り出される方の素朴な疑問なわけで、え、だって何でって、うんって詰まってしまうだけのそれで。それに答えがあるとかどうとかじゃないし承認欲求です!とか言われてもえっとじゃあ働いたり金でも持ってた方がよっぽど承認されやすいんじゃない?って話じゃないですか。金とかそんなのじゃなくても例えばリアルでなんかスポーツだとかダンスだとか見せられる趣味だとかすればそっちのがよっぽど健全な人々の健全な承認を得られるんじゃない?っていう。まあやってる人もいるか。うんじゃあいい。そもそもそんないうほど疑問じゃなかったし問い詰めたかったわけでもなかったしうん。あーなんかちょっと落ち着いてきた気がする。もうなんか言いたいとかないですけどね。とりあえずベートーベンは聴いたほうがいいというのは言ってもいいかもしれない。なんかかっこいいですよさすがに。あと赤い公園ってバンドとか最近絶賛売り出し中みたいで、いろいろ情報漁って面白いなあと思いました。なんか凄いなあって思ったけどそう書いても浅くなるだけなので曲聴くなりしてください。音楽の入力量は多くなってる気がしますが語る言葉をあまり持ってないのであまりどうこう言えません、それを言ったらどの分野もそうじゃん。本の感想とかも書けたらいいんですけどね。何だか特に浮かばないというか捻り出すほどの何かがないっちゅーか。まあじゃあしなくてもいいよね無理してまで。うんそれで。あーあとちゃんと読み終えてないけど、というか買ってから何年か経ってるはずの三島由紀夫金閣寺、一度ちょっと読んであまり嵌らなくて完全放置してて、最近また途中から読んだりしたらさすがに表現力が凄いというか言葉や描写の鮮やかさを感じたりしてなんかやっぱ作家ってすげーんだなって以前は思わなかったことをぼんやり思えましたのでこんな私にもそれなりに文章を見る目が熟成されているのかもしれませんが、やっぱり大して読み進めることもなく放置しています。

 誰もわかってくれないのに何で非難のようにどうこう言われて、それで何かを頑張るとか、善いとされるものを目指すとか、周りの人に合わせて無理にでも楽しむとか明日を目指して生きるとかしなきゃいけないのか、その意味がわからない、それをすることでどこに辿り着くわけでもないのに。なんていう言葉にすると全く深みのない、そんな感情で、でも自分の来歴を通してその時々で感じてきたように思える、ある種の不条理感とでもいうのか、怒りでもあり、納得のいかなさ。たぶん、それはそれなりに多くの人も感じることはあるだろうし、それをもっと激しく人生や世界への怨嗟というレベルで感じていたり、意図的にせよ結果的にせよ文学的にあるいは垂れ流し的に表現している人もいるし、読んだことはないけどカミュの不条理だとかそういうのも、哲学的に難しく語ってはいるけど煎じ詰めればそういう類の感情が根底にあるというだけだろうとも思ってる。って別にそんなことを論じたいわけじゃないが。
 今日そういった気持ちが幾つかの記憶やらと結びつきながら噴き出してきて、そういえばあの頃もそんなわかってくれる何かを求めて、でもそんなものが見当たらないことに苛立ったような悲しんだような飢えたような気持ちを、帰り道に抱えていたり、親の言動に対して感じたり、していたんだと、今の気持ちから過去が逆照射されて鮮やかに(とまではいかないが)脳裏を揺れ動く。
 そもそもわかってくれるって何だ、って言えば、たとえば気持ちや考えを受け入れられること、とでも言い換えられるけど、じゃあ現実に他人がこれこれこういうことをしてくれれば受け入れられたということになるのか、っていったら、別に必ずしもそういう現実的で具体的なことをされたいわけじゃない、されたとして大して満足するわけじゃないことは解り切っている。求めているとすれば、もっと抽象的な、それこそ神に理解され受け入れられる、とでも表現したほうが近いぐらいのもの。そこまで大袈裟なものか、っていうと違うようにも思うけど、まあ根底で究極に求めているのはそういうもの、というか。音楽やそういうので孤独を感じられるものに触れれば、受け入れられたというか、慰められるぐらいにはなるか。孤独で孤独を制す、ていうよりか包む。
 無駄に重たい。

 例のバスケ漫画の事件の人の意見陳述。うわーというかへーというか、ある意味ありありと想像できるものではあるんですけど。まあ色々と自分いじめ(とか人生格差意識みたいなのとか)が激しいなとは思いました。そういう人はそれなりに多いけど。私はそこまで自虐的にはなれないので、別にどうしてもしたかったら覚悟を決めて妬んで道連れでもなんでもしたっていいじゃない、それを断罪してくる奴らにどうこう適当なことを言われたくもないし、と感じてしまいましたが。なのにこの人は断罪して欲しいとかどれだけ自分を抹殺したいねんと。ここにも愛と哀しみと正しさの絡み合いがあるのですね。にしてもこれだけ自己把握できる知性があっても、それだけが足場じゃどうこうできなかったんですかね。勉強次第で「何か」になんて簡単に気付けそうっていうかさ。あんまり学問とか知的探求には興味が湧かない人だったのかしら。まあ気付いたり解っただけじゃどうにもならないっちゃそうだけど。
 でも程度の差はあれ私も自分いじめは色々やっちゃってる気がするのでなんか気をつけよう、とか思いました。最近もマゾヒスティックな感情に気付いたりもしてるし。こんな表現では伝わらないし語弊がある気がするが。愛は快楽とも苦痛とも同一ではないので難しいってことです、多分。  
 あと嘘に纏わる(といっていいのか)事件も目立ってますね。特に言いたいことはないっちゃないが。それなりに面白いのでいいです。

遠い星

 満たすべきものが欠けた、恥ずかしい間違った存在。その惨めな顔を覆い隠すために重ねた所業を見透かされ、全てを剥ぎ取られた見窄らしい肢体、その疵までも晒すことになるなど、耐えられない。間違った自己を断じる視線を脳裏に飼いながら、その辱めを与えたのは、それを間違いとそもそも嗤ったのはお前らだと、睨め上げた眼に憎しみを抱いて縮こまっている。自身を恥じながら怯え、他者を憎み殴りかかろうとし、そんなことは分不相応だと一方の自己が制し、制せられた自身をより一層恥じ、それを視ている他者を恐れ、宙吊りの衝動が、もはや自他どちらに向けられたものなのかも、憎んでいるのは過去の奴らか今いる自分か未来の世界かも、判らないまま、自意識の往復の中で募っていく。
 それなら終わりにすればいい、そう誰かが呟いて、パチンと弾けた。

 なんだっけ。何について書くとか、どうとかっていっても、簡単にはいかなくなってますね。考えたことや面白く感じることや引っかかることがないとかではないはずなんだけども。この間も別の時に考えたことを、お、後でなんとなくまとめて書いてみようかな、とか思っても、その思考が固形化ししないまま流れていってしまって、ちゃんとした姿を今やとどめておらず、文章化できるほどでもない。思い返してその輪郭がうっすらと見えても、そうだったよし書こう、と思えるほどでもない。といって、それらを完全に忘れてしまったわけではなく、自分の見方や価値観の体系のデータベースのようなものには組み込まれて(溶けこんで?)、その結論(というかどう考えたか)を取り出したり、トレースしたりはできる。ので、それらが表現するまでもないし覚えるまでもないどうでもいいことだった、と考えるのは無理がある。だから、それらの内容がどうでもいいんじゃなくて、それらをいちいち形にしようと曲がりなりにも言葉を当てはめて体裁を整えて他者に(あるいは自分に)向けて表現することに対してのモチベーションなりインセンティブが不足していると考えるのが妥当なのではないか。わー身も蓋もない。
 あ、でも内容面においてもどうでもいいというか、たとえ引っかかっても思考の上でほぼ流れてしまうだけになってしまう一過性の話題やらもあるし、それに主にこういうことについて語りますというポリシーもないわけだから、引っかかったことっていっても細かく言えばいろいろあるわけで、どれについてどう書けばいいのやらと注力する的のようなものが見当たらないのもあるかも。まあまとめると大体において書くこと向かうだけの情熱が足りない、というところか。恐ろしくネガティブなだけの結論で力が削がれる。あとは瞬発的に考えたことをぱっと出す瞬発性やら形成力が少ないのも要因かな。文にしようとすると俯瞰モードに入りすぎて?言葉が稚拙に思えて?すべてどうでもいいように感じられるというのもあるかもしれません。わからないけど。理屈じゃわからない!
 

 回りくどくて小難しいだけだったり、つまるところ何を求めたり表現したいのかわからないようなものとか、ただ嘆くだけのような言葉とかには、苛立ちを感じやすい、このところ。このところっていうか、結構前からか。苛立ちというほど強くはないけど。なんだろうな、それでじゃあ結局は何がどう問題で、どういう方向に解決したくて、解決とまでいかないにしてもどの辺りが理想や欲していることで、それが社会や他人や何か動かしがたいもののせいだというならそれはそれでいいのではっきりさせていこうよ、無闇に嘆くだけとか能書き垂れるだけじゃなくて、あなたはどうしたい、何がお望みなのかはっきりさせていこうよ、いや嘆くことが目的です能書き垂れるのが目的です、というのならそれでいいからじゃないとこっちがモヤモヤすんだよ!というように感じてしまう度合いが強まっている。というか個々の誰かの言葉に対してそう思うっていうよりは、相対的にそういうなんかはっきりしないものが多いよなーって積み重ねで苛立ちが起こりやすくなる。まあ勝手に苛立つなんて余計なお世話というかマッチポンプ(じゃなくて自虐か)もいいところだし、誰だって常に、何が問題といえばこれが問題で、何がしたいかといえばこれで、そのためにこれが必要でっていう爽快なやり方に習熟しているわけでもないし、そういうところに最終的には至る必要があるとしても、色んな意味で「途中」の悩みや感情や思考がどろどろのまま、ロクに俯瞰も整理もされぬまま勢いに浮かされて露出しているのが世界であるので、しょうがないわけです。それが嫌なら見るなという話です。いや見てもいいけど結果モヤモヤを抱いたとしても誰に文句を言えるものでもないのです。そう私も今まさにモヤモヤを発散させるためだけにモヤモヤした文を書かなければならなかったのだから。