誰もわかってくれないのに何で非難のようにどうこう言われて、それで何かを頑張るとか、善いとされるものを目指すとか、周りの人に合わせて無理にでも楽しむとか明日を目指して生きるとかしなきゃいけないのか、その意味がわからない、それをすることでどこに辿り着くわけでもないのに。なんていう言葉にすると全く深みのない、そんな感情で、でも自分の来歴を通してその時々で感じてきたように思える、ある種の不条理感とでもいうのか、怒りでもあり、納得のいかなさ。たぶん、それはそれなりに多くの人も感じることはあるだろうし、それをもっと激しく人生や世界への怨嗟というレベルで感じていたり、意図的にせよ結果的にせよ文学的にあるいは垂れ流し的に表現している人もいるし、読んだことはないけどカミュの不条理だとかそういうのも、哲学的に難しく語ってはいるけど煎じ詰めればそういう類の感情が根底にあるというだけだろうとも思ってる。って別にそんなことを論じたいわけじゃないが。
 今日そういった気持ちが幾つかの記憶やらと結びつきながら噴き出してきて、そういえばあの頃もそんなわかってくれる何かを求めて、でもそんなものが見当たらないことに苛立ったような悲しんだような飢えたような気持ちを、帰り道に抱えていたり、親の言動に対して感じたり、していたんだと、今の気持ちから過去が逆照射されて鮮やかに(とまではいかないが)脳裏を揺れ動く。
 そもそもわかってくれるって何だ、って言えば、たとえば気持ちや考えを受け入れられること、とでも言い換えられるけど、じゃあ現実に他人がこれこれこういうことをしてくれれば受け入れられたということになるのか、っていったら、別に必ずしもそういう現実的で具体的なことをされたいわけじゃない、されたとして大して満足するわけじゃないことは解り切っている。求めているとすれば、もっと抽象的な、それこそ神に理解され受け入れられる、とでも表現したほうが近いぐらいのもの。そこまで大袈裟なものか、っていうと違うようにも思うけど、まあ根底で究極に求めているのはそういうもの、というか。音楽やそういうので孤独を感じられるものに触れれば、受け入れられたというか、慰められるぐらいにはなるか。孤独で孤独を制す、ていうよりか包む。
 無駄に重たい。