What did curiosity kill?

 面白さって大事、と書き出しからして陳腐。なぜか立ち止まって考えてしまうと書き方に妙に迷ってしまい、この頃はほんと書きにくくてしょうがない。こうしなきゃ、とか思ってるわけでもないはずなのに。こうしなきゃはないけど、こうでいいのか、というような戸惑い、あるいはこうでいいのかどうかを判断する指標も目標も特にないので結果的に困っている、のかもしれない。
 まあそれはいいとして。人は根底で愛を求めてる(これって言葉でいうと相当薄っぺらいな)とか、現実的な問題解決や悟りを求めたりもするけど、短期的には?というか、漠然と面白さみたいなものを、目当てにっていうか、そういう性質の匂いを発しているところに惹かれて集まったり、ある意味どうでもいい議題にごちゃごちゃ言い合ったり、自ら何かを創り出そうともしたり。それを目的にして行動してる、というほど合理的なことじゃなくて、何か面白くていいよね、っていうカジュアルで、雰囲気的なもので、感情とか価値とかいえるほど客観的に明確なものでも必ずしもなくて。気分、に近いのかもしれない。
 その対象になるのは、知的なこと、娯楽と言われるもの、実用的なもの、食べ物だったり。まあ言い出したら全部だな、人間が関わることや興味を持つこと。その面白さにも、武道や学問などにコミットして教養や人格を深めることに意味を感じるとか真面目なもの、芸人がやってるような瞬発的で一過性のその場のやり取りの享楽や笑い、何でもない日常で見かける何かに関する雑学、そういうことあるよね的な共感、文学的な味わい、フィクションにおける非日常的で奇抜な設定とドラマ、鳴る音楽に一体化するような陶酔、家事の工夫や仕事道具に拘ったりすること、自分ルールとマイブーム、4コマ漫画のような面白さ、アイドルや芸能人への熱狂、気の利いたユーモアやウィット、あの人この人の性格や癖の違い。
 とかいって、色々なベクトルや濃淡がある。これらを「面白さ」の一言で括るのはあんまりにも大掴みすぎてw哲学的に面白さの本質を取り出すとかそういう論議はできなさそうだけど。単に愉悦、快楽、ってだけでもないだろうしね。それに面白いものイコールポジティブな性質や姿形なわけじゃなくて、ネガティブなものが面白くないわけではないし。なんかそういう色んな質の面白さを日々消費して?求めて?いろいろ自分も人もやってるんだなーっていうことを改めて考えたりしたというだけです。
 

枠を与えて閉じ込めて

 なんていうか、たとえ同じ言葉を使っていたとしても、それが表していたり含んでいたりする内容やら意味やら気持ちやら背景にある価値観その他実際にその人が生きているそのあり方や現実、それに対する認識の深さ広さ、まあ一言でいうとその「心」が色々違いすぎるし、受け取る側の解釈コードやその受容に対応する姿勢もそれぞれで違いすぎるので、人は他者を理解できなかったりアドバイスしてるつもりでズレちゃったり単なる否定になってたりそう取られちゃったり、ごちゃごちゃするんだよねっていう、いまさら言うまでもないことだけれど。もちろん、自分が理解できていない自分や世界の側面を気付かせるのも、他者の言葉や態度であったりするんだろうけどさ。
 自分がある程度自分や他者や世界について、理解したり把握しているつもりでも、それは自分が認識できている、「視界にある」範囲のことでしかない。私が一度は否定したり排除したり、不可解あるいは不要だと判断したものの中に、いつか改めて牙を剥く何かがないとも限らない。というか、たぶん(それなりには)ある。でもだからってただ身構えててもしょうがない。
 話が繋がっていないだろうけど、学問とかのダメなところというか勿体無いようにも思えるところって、客観性やら厳密さに重きを置き過ぎてるせいか、外側のものになっちゃうところが。自分の生活とか人生にどれだけ意味があるのかとか、そういうのが普通には繋がりにくいっていうか。まあそれは、それぞれの発信者が書籍なりでどれだけ噛み砕いたり解りやすい表現をするか、読者がそれらを利用できるだけの知性や理解力なりが、あるかないか、育てられるか、っていう問題が大きいんだろうけど。
 精神分析やら仏教やらも心を理解しようとしてるのはいいけど、学的に記述しようとしすぎてる面とか、システマティックにしすぎてるところとかもあって、そりゃ普通は敬遠するわな、めんどいし気持ち悪い、ていうか。心なんて根本的に気持ち悪いもんだといえばそうだけどw
 自分ももうちょっと研鑽を積んだり、というのか、そういうところを考えないと、という気もしてきた。何について、っていうのは難しいけど。まあ精神的なことであるとか、文章表現をもっと統制の取れているものにするとかでもいいんですけどwこう全体的に。軸がない、わけじゃないけどあやふや過ぎる?かもしれない、と思って。輪郭や枠を与えないと、あるいはストーリーを。世界はどうとでも切り取れる、とか言ってると切り取りすぎて結局とらえどころのないまま雲散霧消、ということにもなりかねない、わけですからね。まあでもどうしてもそういう方向に考えちゃうような悪い癖みたいなのはあるけどさ。そうかもしれないけど、それで悪いの?みたいな。いっそ雲散霧消しちゃえばー、て、いうのは破滅願望か何かでしょうか。

Fear of Being Alienated

I noticed my inmost fear of being alienated. Every time that I feel anxiety about communicating with people, it is always there. I have known that a kind of emotional confusion or pain occurs in my heart when I get involved in people at certain situation. I didn't know what it meant clearly. I thought of the confusion as a part of wavering self-consciousness. This is probably true but vague. But now I see what the emotion really is. It is not so much fear for lack of love as fear of being looked as a weirdo.

歯痒い想い

 考え方ずれてるなあって思う、というか違和を感ずるやつとか、あってですね、でもまあそういうズレや対立?みたいのがどういうところ(感情や解釈)から生まれるかっていうのはもう長い研究の果てにw大体において把握してるつもりだし、他にも似たようなことを言ってる人もいるし理論的に詳しく説明してるものもあるしで、いまさら指摘したりどーたら言う気にもならないことも多いけれども。でもそういう引っ掛かりに幾度も出くわしてると、こう小さい違和感が喉に刺さった小骨のように蓄積して肥大していって、あーそういう感情で思考を回してるからそういう考えになるのねーふんふんわかるよーって感じに優雅に流せなくなってくるんですよ。だからって別にそれに怒ったりしたいとかってわけでもないんですよ。
 めんどくさいぶつかり合いがしたいわけでもないし、メタ視線で人をバカにしてる!と思われたいわけでもなし。そういうのもやってみるのが生きることなのかもしれないけどさーいやもう今更無理だ。ああでも愚痴を吐き出す程度には言いたい!ある意味自分はわかってるアピールなのかもしれないけど、そういうなんか無粋なこととわかっててもしたい!って思う。
 多分そういうのをフィクションや創作物に対してぶつければ蟠りもなくて済むんだろうね、って思うのでできればそうしたい、かもしれません。

interpretation rules everything

 例えば自分という存在が自由意志や主体性といったものを有しているとは考えず、自分の有り様や行動その他が外的な条件に全く依存している、という世界解釈の体系を人は持ちうる。そこでは、例えば親が自分に対してしてきたこと、教育が与えたもの、またそのような限定的なことのみならず、今日この時までの私に放り込まれた(財産、食べ物、対人関係、経験、学習など)あらゆる入力が関数のように私を規定しているのであり、私が何かについて努力したり意志することがあったとしても、それ自体が外的な刺激やその累積によって生起した結果であり、外的な条件によって、あるいは運命によってそうならざるをえなかったものである、と見做すことは可能である(むしろ、素朴な?直線的な因果律の支配する世界観に馴染んでいる者は、そのような解釈の体系を、あるいは自明なものと見做していることも多いかもしれない)。
 そのような世界解釈はもちろん、見えている現実とは特に矛盾はしない。当然ながら、その体系において責任や処罰といった概念についてどう考えればいいのか、といった問題は突き詰めれば生じるものの、それについては、過去の遺物とか人間が生きる上で必要とする虚構だとか、世界が必然的に包含する何らかの論理エラーとでも言って処理してしまいうる。
 そのように、現象として表れている限りの現実と矛盾せず、そして体系内においての矛盾もない世界解釈の体系は、複数のものがありうる。しかしながら、我々はこの対立しあう解釈体系について、現実という試金石が頼りにならないとしても、どちらがより真実に近いものと言うこと、あるいはそこまででなくともより合理的でありうる、ということを考えうるだろうか?あるいはもしかしたら、こういった信念体系について現実が試金石にならないというのは決めつけであって、しっかりと探求すればその解釈の不都合性を示唆しうるような材料が、現実に見出しうるのだろうか?あるいは、現実といった客観的かつ公共的な何かではなくて、私秘性や超越性、神秘性の関わる何かがその比較に決定打を持ちうるのだろうか?述べた内のいずれかが正しいものだとすれば、それはどのようにして示しうるのだろうか?

そこにある野生

 最初から完璧や正しくあることや十分であること、理想通りのものであることを求めすぎて、結局長い目で見たら自滅していくはめになる、なんていうパターンなんて、個人レベルの心理的な病理だけでなく、集団や社会レベルでも形を変えて色々な領域でありそうな話だ、と改めて思った。今の日本が抱えてるような諸問題がそれを要因に生まれているところがあるかどうかは、簡単には言えないだろうけど。たぶん実証的な検証はできないだろうし、ね。まあそんなこたぶっちゃけどうでもいいんですが。
 閑話休題。散歩がてら外に出て、ローソンでパンを買い、川の近くで食しておりましたら、どこからともなく猫が近寄って来て、微妙な距離から甘えるような鳴き声を出してきた。え?とほぼはじめての体験に戸惑う。さほど近くに寄って来るでもないし、誤魔化すような余所見もするのでいまいち意図が測りかねたけど、やはり食べ物が欲しいのだと考えて、迷いつつ少し千切ってやってみた。なかなか必死で食べる。飼い猫…ではないだろうけど、人馴れしてるのか、だからエサを強請るのか。飢え気味なのかな。と思ったけど、その体を見ても痩せているようには見えない。むしろ少し肥っているのでは?こちらがしゃがんで顔を近づけて眼を直視しようとすると、びくっと驚いて後ずさった。少し怯えた様子で、薄空色の目で見てくる。ってことは必ずしも人馴れしてるわけでもないのか。そんな怖いならなぜそもそも甘えてくるんじゃ、とも思ったけど普段猫との交流がないので、その怯えが普通の反応なのか、初対面(?)だからあちらも探り探りなのかよくわからず。そんなにしてまで食い物が欲しかったっていうのと、見かけ上は痩せてるわけでもない、ってことを考え合わせると、妊娠したメス猫だったりするのかも、とアブダクションしてみて、その生きるパッションに一抹の切なさを感じつつ餞別とばかりに最後のパン切れを与えて、さよならした。どうなんでしょうか、と思って調べたら一応出産シーズンに当てはまっている!ようなので、あながち間違いでもない推論かもしれません。ちゃんと観察すればもっと手がかりがあったかも。
 なんて、数日前にマンガ『とりぱん』読んで、影響されたのもあってか、たまたまの動物との触れ合いに仄かに感動して書いてしまいました。それほど動物好き、見たい、触れたい、とかってタイプでもないですけどね。興味はあるけど。

賽振る阿呆に(略)同じ阿呆なら振らにゃ損損

「サイコロを1度しか降れない場合1の目が出る確率は1/2」という確率論 分からない人のために作者が回答:哲学ニュースnwk
 確率論とか、そんなには知らないですが。これって、フツーの確率の考え方が、サイコロのどの目が出るのも事象としては「同様に確からしい」っていう前提のもとに、「サイコロをふる」っていう同じ試行1回1回に1の目も2の目も3の目も同じような起きやすさで(?)起きうる事象だよね、だからこそサイコロを1回振った時に、1の目が出る確率は全事象の6のうちの1だよね、つまり1/6だよね、って考えているのに対して、いやいやサイコロを振るのは同じ試行ったって、物理的に全く同じ「サイコロを振る」なんて存在しない以上、「同じ試行」というものを考えることはできないし、だから確率が1/6だなんていうのは、いってみりゃでっちあげでしかないんだ、むしろ物理的に一回限りである<今この時の起こり方における>「サイコロを振る」ことにおいて、ある目が出るか出ないかの、1/2のほうが正解なんだ、という確率論に対する懐疑的なツッコミ、という理解でよろしい…のかな?
 そもそもー、同様に確からしい、って何なのですか、って気になっちゃうんですよね。それは確率を考える上での仮定?えっとでも、同じだけの確からしさでそれぞれの目が出るっていうのは、出る確率が同じ、っていうのとは違うんだよね?だって確率っていうのは同様に確からしい事象(とそれらを起こす試行)に対して、定義されるものってことなんだもんね?じゃあ同様に確からしいっていうのはどうやって確かめたんでしょーか、っていってもどうしようもないのであって、それはそういう前提で考えてるのであって、それが確率なんだっつーのってことなんだよね?うーn…ごめんわかったようでわからない。あれでもそもそも確からしいってことと確率は…(略)
 言ってることからしてなんか違うかもしれませんが。でもやっぱりこういうこんがらがるような難しさを孕みつつも(勝手に勘違いしているだけという可能性も高いが)、手が届く基礎的なことを考えようとするのは楽しいですね。というか前からそれなりには考えて、ある程度納得したような深まったような地点には到達したつもりなんですけど。数学的なことを表現している文章だったり定理だったりって、教科書とかそういうのだとすっきり洗練された「成果としての体系」を見せてはくれても引っかかりや逡巡する手立てが見当たらなくて無味乾燥に思えちゃうので、自分から求めるモチベーションがそう湧かないところがあって。なんでそう考えたのかそれを考える必要があったのかそれが知りてえんだよこっちはよ、みたいなね。まあ教科書なんだからそんなに色々ツッコミまくってたらキリないわな。てめーで学習しろ考えろ、ですな。