interpretation rules everything

 例えば自分という存在が自由意志や主体性といったものを有しているとは考えず、自分の有り様や行動その他が外的な条件に全く依存している、という世界解釈の体系を人は持ちうる。そこでは、例えば親が自分に対してしてきたこと、教育が与えたもの、またそのような限定的なことのみならず、今日この時までの私に放り込まれた(財産、食べ物、対人関係、経験、学習など)あらゆる入力が関数のように私を規定しているのであり、私が何かについて努力したり意志することがあったとしても、それ自体が外的な刺激やその累積によって生起した結果であり、外的な条件によって、あるいは運命によってそうならざるをえなかったものである、と見做すことは可能である(むしろ、素朴な?直線的な因果律の支配する世界観に馴染んでいる者は、そのような解釈の体系を、あるいは自明なものと見做していることも多いかもしれない)。
 そのような世界解釈はもちろん、見えている現実とは特に矛盾はしない。当然ながら、その体系において責任や処罰といった概念についてどう考えればいいのか、といった問題は突き詰めれば生じるものの、それについては、過去の遺物とか人間が生きる上で必要とする虚構だとか、世界が必然的に包含する何らかの論理エラーとでも言って処理してしまいうる。
 そのように、現象として表れている限りの現実と矛盾せず、そして体系内においての矛盾もない世界解釈の体系は、複数のものがありうる。しかしながら、我々はこの対立しあう解釈体系について、現実という試金石が頼りにならないとしても、どちらがより真実に近いものと言うこと、あるいはそこまででなくともより合理的でありうる、ということを考えうるだろうか?あるいはもしかしたら、こういった信念体系について現実が試金石にならないというのは決めつけであって、しっかりと探求すればその解釈の不都合性を示唆しうるような材料が、現実に見出しうるのだろうか?あるいは、現実といった客観的かつ公共的な何かではなくて、私秘性や超越性、神秘性の関わる何かがその比較に決定打を持ちうるのだろうか?述べた内のいずれかが正しいものだとすれば、それはどのようにして示しうるのだろうか?