枠を与えて閉じ込めて

 なんていうか、たとえ同じ言葉を使っていたとしても、それが表していたり含んでいたりする内容やら意味やら気持ちやら背景にある価値観その他実際にその人が生きているそのあり方や現実、それに対する認識の深さ広さ、まあ一言でいうとその「心」が色々違いすぎるし、受け取る側の解釈コードやその受容に対応する姿勢もそれぞれで違いすぎるので、人は他者を理解できなかったりアドバイスしてるつもりでズレちゃったり単なる否定になってたりそう取られちゃったり、ごちゃごちゃするんだよねっていう、いまさら言うまでもないことだけれど。もちろん、自分が理解できていない自分や世界の側面を気付かせるのも、他者の言葉や態度であったりするんだろうけどさ。
 自分がある程度自分や他者や世界について、理解したり把握しているつもりでも、それは自分が認識できている、「視界にある」範囲のことでしかない。私が一度は否定したり排除したり、不可解あるいは不要だと判断したものの中に、いつか改めて牙を剥く何かがないとも限らない。というか、たぶん(それなりには)ある。でもだからってただ身構えててもしょうがない。
 話が繋がっていないだろうけど、学問とかのダメなところというか勿体無いようにも思えるところって、客観性やら厳密さに重きを置き過ぎてるせいか、外側のものになっちゃうところが。自分の生活とか人生にどれだけ意味があるのかとか、そういうのが普通には繋がりにくいっていうか。まあそれは、それぞれの発信者が書籍なりでどれだけ噛み砕いたり解りやすい表現をするか、読者がそれらを利用できるだけの知性や理解力なりが、あるかないか、育てられるか、っていう問題が大きいんだろうけど。
 精神分析やら仏教やらも心を理解しようとしてるのはいいけど、学的に記述しようとしすぎてる面とか、システマティックにしすぎてるところとかもあって、そりゃ普通は敬遠するわな、めんどいし気持ち悪い、ていうか。心なんて根本的に気持ち悪いもんだといえばそうだけどw
 自分ももうちょっと研鑽を積んだり、というのか、そういうところを考えないと、という気もしてきた。何について、っていうのは難しいけど。まあ精神的なことであるとか、文章表現をもっと統制の取れているものにするとかでもいいんですけどwこう全体的に。軸がない、わけじゃないけどあやふや過ぎる?かもしれない、と思って。輪郭や枠を与えないと、あるいはストーリーを。世界はどうとでも切り取れる、とか言ってると切り取りすぎて結局とらえどころのないまま雲散霧消、ということにもなりかねない、わけですからね。まあでもどうしてもそういう方向に考えちゃうような悪い癖みたいなのはあるけどさ。そうかもしれないけど、それで悪いの?みたいな。いっそ雲散霧消しちゃえばー、て、いうのは破滅願望か何かでしょうか。