不安と私とメタ認知

 かなりの緊張にさらされる場面に立ちあった。絶対いま扁桃体から不安物質みたいなものが放出されてる!アミグダラ!アミグダラから!というのがありありとわかる脳状態で、あーこういう混乱した感情や認知が殺してほしいみたいな思いにも繋がってたんだよなあ、と想起したりしていた。
 ここのところやってみている瞑想なんかのおかげもあるのかよくわからないけど、情緒的混乱は以前より減ったような感覚がある。不安に飲み込まれて認知や思考がネガティブな方向に走っていく、浸されていくのに気づけて、その上である程度距離を置けた、コントロールできたんじゃないかという風に思った。緊張のピーク中にも、ちょっと自分の状態に気づいて、話し方の統制ができた場面もあったし、不安から逃避して落ち着こうとする方向じゃなく、受容することによって落ち着ける方向に少し歩を進めた、んじゃないだろうか。おそらくは。少なくともメタ認知の能力は向上してるように思う。
 今回の緊張体験も、認知の変化に貢献しててくれて、次に似た状況に出会う際には混乱を誘起するような感情がより少なくなっているといいな、と思う。思うというかお願いしたいです(誰に)。
 頭の中に痺れのようなものというか、現実や身体感覚からか剥離するような感覚があって、他の人も緊張は感じてはいるのだろうけど、振る舞いから推測する限りにおいては、自分ほどではないんじゃないだろうか、と思ってしまう。主観的にしか認識しえないものってこういうところが厄介だなーと思う。主観的なゆえに本人の思考には絶対的なレベルで作用して、根本的な世界観の構成に強く影響するのに、それは他者からは徹底的に断絶してしまっている。だから一度形成されると、余計に揺り動かしづらいものになってしまう。緘黙だと言葉で伝えることすらろくにできないからなんというか絶望的だよね。絶望してたけど。
 不安や恐怖については、自分にとってこんなものがなければ苦しまないですんだのに、という想いが強いから、要らない感情だなーっていうか、そのほとんどが、自分が抑制されずに生きることの足枷になっているという印象しかない。もちろん、『ネガティブ・マインド』で言ってた自己注目やらと同じく、適切な度合いで作用している限りにおいては、日常の社会的な行動の統御にも役に立っているものではあるのだろうけど。そんなの知らねえよ、いついかなる時でも適切に働けよ、感情をコントロールする技法なんて何一つ知らなかったよ、と言ってやりたい(誰に)。
 だからなのか知らないけど、幽霊や怪談が怖いというような気持ちって人に比べたらあまりないんじゃないかという感じがする。そんなの死にたいぐらい不安なことに比べたらぎゃーぎゃー騒ぐことじゃねえし見たことねえしそもそもいねえよ、みたいに思っている節がある、というか。そもそも恐怖の質が違うのかもしれないから、見当違いかもしれないけど。
 何にせよ、これから一層不安に対してのコーピング技術とか、耐性というか免疫とかを成熟させていかなきゃならないなーと、外の世界に合わせるためではなく、自分が楽になるために、と思う。誰が助けてくれる、なりかわってくれるというわけでもないのだから。