感情と理性

 前の記事から日が空いてしまってる。気楽にというつもりのわりにここには何かしらまとまったことを書こうとしてしまうのでどうも難しい。特別書かなきゃという気負いもないので別にいいかとは思うのですけど。あ、ブクマしてくれてる方ありがとうございます。
 ここのところは半年前とかに比べても、ネガティブな気分に取り込まれることとか、過去の苦しみやらを想起するようなこともずいぶんなくなっている。夜とか天候に気分が左右されることも少なくなった。楽になりたいという昔からの願いがここへ来て一層完成されてきているような感じ。外的な条件がどうあれ無駄に苦しむのは本当によしたい。ブログに書いて読まれたりブクマされる注目恐怖みたいなものもだいぶなくなっていますし。ストレスになることがあってもあまり感情的に引きずらないで済んでるしすごい助かる。色々考えたりやったりしたおかげだろうな。ほんと平安しか望んでない。
 感情って振り回されるだけ損だよなあって思う。もちろん「振り回される」という時点で損を含意してるんだけれど。価値の源泉になる働きなのだろうけど、自分は負の感情に振り回されたことはあっても、逆はあまりないからなあ。
 常に理性的でスマートなのが正しいとか格好いいと思うわけでもないけど、あまりにも非効率的という場合も多いし、論理療法でいうイラショナル・ビリーフとかも、感情に引きずられた結果生まれたり強化されたりする、ってことじゃないかと思うわけで。そんな明らかに本人の健康にマイナスになるものが何であるんだよという話ですよ。「合理性を圧倒する感情 (ジャン・ニコ講義セレクション)」をちょっと読んだところ、感情が嗜癖と同様に合理性を傷つけることがある、というような議論がされてたけども。
 感情か理性か、なんて安易な二項対立にするつもりはないですが。ただ、表出において感情がウェットな人はいるなあとは、ネット見てても思って、そういう人のが誰かを元気にするっていうのはあるのかもしれない。音楽を聴いてても、情感が優先している人と、知性や数理的な部分が強い人がいるような印象はあって、その辺りは面白いと思う。
 あと、子供のころに不安が強いときに、ビー玉程度の小さい丸いものが被ってる布団の上に乗っかってて、小さいのに何か圧迫されるほど重い、みたいな妙なイメージ(ほかにもあった)を夢で見た、というか感じた覚えがあって、その辺りがうまいこと発達すれば芸術の才能にもつながりはするのかなーとか。表現技術とは別かもしれないけど。
 最近は理性は感情の調停者、統制者というのがイメージとしてあって、それは倫理的にも重要なこと、と思うから別にどっちを取るかという話でもなく、生活上の丁度よさの問題かと。たぶん、人によって最適なバランスは違うのでしょうね。