悪についてもうちょっとだけ考えてみたり

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

 読んでみました。カント倫理学をいくつかの論点を中心に、悪について、平易に説明していらっしゃいます。
 いろいろ難しいところもあってしっかり読み込めてませんが、私が理解した中で一番はっきり打ち出されているっつーかわかりやすい命題というのが「適法的な行為(形の上では善い行為)は必ずしも真に道徳的に善いことではないんですよ」というところ。両者の違いはなんですかというと、動機だよと。自分や他者を幸せにしたいという自己愛にもとづいた行為はどんなに讃えられるようなことでもほんとに善いことじゃないんだよ。でもそういう自己愛から完全に自由になれる人がいるわけないので、どんな善人もそういう意味では悪なんですよ。むしろカント的には自己愛まみれの善人のほうがわかりやすい悪人よりもよっぽど憎い!キモい!というような趣旨です。
 ええーってなるような厳しさで、カントによると友人を殺そうとする人に、友人を守るために嘘をつくのもダメ(道徳的に善いのではない)、ってことらしい。それは愛を優先したので、それも自己愛なので。
 それってどんな厳しさだよって思うけど、でも道徳性の本質ではあると思って、今までの知識と繋がって整理が進んだかも。つまりカント倫理学では個々の自我の利益とか快不快に還元されない、普遍的な道徳法則があると。それは理性的存在者なら誰でもわかるものだと。
 別に誰にも害ではない場合に自己愛が優先で何が悪いのって感じだよね素朴に言うと。いやもちろん結局のとこそういうのが根底にある「親切心」やらが胡散臭いっつーか、心理状態によっては素敵なものに映らない(ことがある)のはそうだけど。
 自己愛にもとづかない道徳的行為というのが不可能だというのは、ある種の絶望や孤独が、誰かからの優しさがあれば埋まるものではない、っていうのと関係ありそうな気がなんとなく…しないでもない。
 自己愛が動機なのにそれを巧妙に隠す善人がダメ、っていっても、自己愛を顕にして生きるのが道徳的なのではもちろんなく、じゃあ自己愛が薄かったりなかったりすればいいのかしらというと、それも違って強い自己愛と道徳法則の狭間で揺れ動きのたうち回るような人が道徳的なんだって。
 つまり自分のしたことやすることに悩みまくり苦しみまくれ!なぜどうしてと問い続けろ、というある意味最悪なのが理想?ってことのようです。
 そんなって思うけど、確かにそういうことを微塵も悩まない人間を考えたらそいつは悪でしょうねっていうか、善性が低いというレベルでなく、道徳性を放棄した、何かって感じかもしれない。