られつらんりつ

不完全な言語や思考で切り取られた現実や情報や考えを受け取って、それを自分のバイアスや情感を巻き込みながら世界として組み込んで、悲観したり歓喜したり焦燥したりとかその他諸々の反応をしていて、感情が落ち着いた後には意識内容の諸々を整理・統合して次の行動・実践につなげたりもしながら、いろんな人がいろんなことをやっていて、で、そういうことを自分が考えて書いている間にも、世の中では私が行ったこともないような場所で、極端な場合は「なんでそんなことを?」ぐらいに理解出来ないようなことを、人々がそれぞれの必然性や理由や発端や思惑や情念があって、やってたり考えたりしているってことなんだろう、みたいに考えることで他者や世界というものを大雑把にでも把握したように思えていても、その把握し定立させた静的な世界のピクチャーというのが、「私の考え」という形で世界に実現するので、世界を把握するために行ったことによって、世界の一部に新しい何かを産み出してしまうし、ましてやそれを言語にして誰かに読んでもらった日には、その「私の考えた世界像」が誰かに読み取られ把握されうるので、ループが螺旋状に連なるという図式レベルを凌駕した複雑な関係が精神と精神の間には成り立っている、ということを考えて少し遠のくような感じを覚えているのも他でもない私。
 って、そういうメタな世界・精神モデルはある意味どうでもいいっていうか、身体を使った地道な活動からは遊離してしまう危険もあるのだけど。
 もっと楽に生きてみないかにある内容を読んで、今までの知識や考えとは違う側面で納得できるところが結構あった。ので、自分自身にコミットするというか、意志を持って生きるというか、そういう部分を増やす、ようなことをしようかなあとか。やっていなかったわけではないし、それこそ各種療法とかで恐怖や不安を克服しつつやってきたんだけども。リスクや摩擦を恐れる自分を、それじゃダメなんだ、みたいに思いたくはないから、防御が先立つ心が強かった。でも、コミットすることで結果的に楽になれるなら、そうしていくだけの根拠が一つではあるけども、はっきりと持てる。
 それが人間として当然なこと、正しい立派なことだからとか、そうすることによって素晴らしい人間になれるとか、人生は修行だ成長だとか、そういうお題目みたいな空っぽな、心から望めもしない(どころか心から嫌悪する)ことじゃなくて、しっかりとしたものとして。
 最近は、精神的防衛を施しながらも不安や恐怖の対象に対処していくと、それを克服というか余裕を持てることも実感として理解できてきているから、コミットして能動的になることが結果的にどう繋がるかというのも割と望ましい形で予期できる。
 なので今日も、大したことではないけど多少そういうことをした。いつもやっているし何か困難があるようなことじゃないけど、意識の点で、傍観者にならないというか、惰性でやらないというか、意志を持って動くみたいなことをした。できるだけ。
 メタ視点で、メタ認知をすることで精神を調節・安定させる、事態をうまく熟すようにする、みたいなのは必要なスキルなのだけど、ある側面では確かに防御であって、そこに意識を避難して一次元的な心や感情を傍観することなんだろうなってなんか実感した。そこに居続けても意志や信念、やる気みたいなもの、あるいはその他の何かは生まれにくかったりする、のかもしれない。
 えーと、そんな感じで落ちもなく、綺麗な音楽とか聴いて寝よう。