光と影

また別件で感情処理に時間を要するなどした。というよりある意味こっちのがひどかった。単なる感情だけじゃなくて、いくつかの鬱スキーマを呼び覚ましたというか。
 拒絶しようが嫌おうが興味を感じなかろうが勝手だろうと思うけど、それをわざわざ露骨に表現する人の気持ちというのはあまりよく分からない。昔からそうだったし、そういうことが何より嫌だった、振り回されるのが面倒だった。
 嫌い、という感情を向けられるのももちろん嫌だったが、好き、とか好意みたいなものであっても、それほど心から嬉しくはなかった、というか、それがいつか失われて見捨てられることを恐れていたし、敵意や悪意に変わるのではないかと恐れていた。
 自信とか自己肯定感はなかったけど、誰かの好意や親切がそれらの欠如を埋め合わせるわけでも、救いにもならなかった。
 そもそも好きとか嫌いとか優れているとか劣っているとか魅力的だとかつまらないだとか、そういう「人が人を評価する」こと自体が怖くて面倒で疲れてどうしようもないことなので、そういう次元の上で評価がプラスになったところで、救われるわけでもなんでもなかった。
 それらは「外側」のことだから、それに振り回されている以上、どうしようもない。でもそういうのがそのまま自分なら?
 他人の目を気にしすぎるのが悪い、自分で自分を肯定できないのが悪い、そういう当たり前のことをできないのが間違っている、素直に自分を表現しないのがよくない、そんなだから幸せにはなれない。うんざりだ。だったら殺してくれればいいのに。お前は欠陥品だ、そういって、処分してくれたらよかったのに。
 正義を謳う人も、優しい人も、前向きな人も、そうあることが結局は誰かを否定していることに気付いていない。そうはなれない誰かを下に見ていることに。優しくしても、それは哀れんでいるだけだということに。
 でも、そういう人と対等になる気は別にもうないので、哀れみでも偽善でもありがたく頂くしかない。下賎のものとして。高貴なものには跪くのだ。
 あいつらは優しいつもりでいる鈍感な人間だ、などと上に立ったつもりになることこそが、倒錯で、傲慢で、間違いなんだ。そう思うのは、弱き者に自身が弱いことを知らせずに助けろ、と要求しているのと同じだ。
 なぜそんなことをしなければならない?強き者が強いことは世界で最も明らかなことだ。それを隠して、弱き者に自らの姿を曝さずに助けるなど、不可能なことだ。可能だとして、そうしようとするものなどいない。
 けれど、どこかで見たような気がする。光ではない、影として現れた何かを。それが糸となって、静かに静かに闇から水面へと、心を引き上げるのを。