鬱蒼と茂る

 割と強めのネガティブイベントがあったため、鬱感情の回路が開かれて、脳がそういうモードに陥ってしまった。だけど、世界が怖い、人間が怖い、自分もう駄目だというほどの状態にはなっていないので、比較的平静といえば平静。
 でも辛い感じの思考がいろいろ出てきた。
 お前なんてつまらないことで勝手に思いつめて自分を可哀想がって、それを怠惰や無計画の言い訳にしていただけじゃないか、とか言われたら、そのとおりかもしれませんね、というほかない。最終的には証明できるようなことじゃないんだから(それを言ったら多くのことがそうだけど)。まあ、それが言い訳だろうと避けようのなかったことだろうと、誰かがそれをうんうん聞いてくれてどうこうしてくれるというわけでもない(いや、あるかもしれないけど)。
 些細なことやどうにもならないことを気にして傷ついて、打ちのめされて塞ぎ込むような人間は、結局は何かを得ることはできない。でもそういうのが「自分」だったら、どうすればいいんだろうか。それは傷つける方が悪いのか。それともその程度のことで傷ついたり、傷ついても言い返したりそれに立ち向かうこともしない、塞ぎ込むだけの方が悪いのか。
 どちらが「悪い」かを決める原理なんて本当はどこにもない。どっちを「悪い」としたからといって状況が変わるかというと、そういうこともあるだろうが、思っているだけではどうにもならない。
 ただ、そのままの状態でいても、いつの間にか誰も人を傷つけることのない世界になっていることなんてないし、出口のない不幸に追いやられるというだけ。
 衒いもなく優しい人や真面目に世界のことを考えてる人、前向きに頑張る人は、すごいと思うけど、自分には無理だなと思う。そしてそういう人のそういう気持ちを信じることもできてはいないんだろう。
 大抵の人はそれほど強くもないし、誰かにとってのヒーローになれるわけでもない。助けを求めはするけど、誰かを助けるというのを解りやすい形で示すのは難しい。「してあげた」という意識と「してもらった」という意識がぴったりと重なることなんてない気がする。一方は「愚痴を聴いてあげた」と思い、他方は「話題を提供してやった」と思っているようなことなんていくらでもありそうだ。それはそれでwin-winなのか。
 そしてそういうのを人間とは醜悪なものだ、と思うか、人間ってバカだけど愛らしいよね、ぐらいに思うか、というのもそれぞれなのだろう。
 ということで自分の辛さも受け止め方次第の部分もあるとは思うよ、確かに。辛い感情が存在するのは確かだけど。なので受け止めたり割り切ったりして対処するしかないんでしょう、気持ちの上では。現実や他人はそう簡単にどうにもならないかもしれなくても。