感情と思考と身体のずれ

可能性で考えればいろいろ手段とか選択肢はあるんだからさ、それでちょっとは良いことがあると思えるなら試してみればいいっていうか、外部や他人に期待してどうこう言ったところで何が貰えるわけでもないしさーって、そういうグズグズに苛立ってるのも変わらないっていうあれだけどその辺なんだよ結局。
 努力なんて言葉も手垢まみれっていうか余計な意味が付き過ぎててもうダメ。コンビニ行くのに10分歩くにしろ自転車で5分にしろ、足を動かしてそこに至る経路を通って移動しなきゃそこに着くことはないという事実を前に、いちいち努力とか言ったりしないだろ。なのに願望希望を叶えるためにすることについては努力とかなんだか大層な言い方をするのがさ。
 「コスト」とかそういう言葉のが価値中立的な感じだしそれがいいよ。それもそれでズレはあるけど。コストっていうとリターンが変わらないなら少ない方がいいってことになるけど、じゃあそのコストとされる移動の間に経験することに一切価値がないのかっていったら、もちろんコンビニに着くことだけを考えたら関係ないことだけど、筋肉を動かすことがある種の快楽になっていたり、星や月が見えて綺麗だと思うとかいったことはあるわけで、そんなのが一切ない世界がお望みですか。そういう目的と手段の関連からは除外される余剰みたいなものが思考からは見えなくなりがちなのだよきっと。
 だから思考と感情と身体も、過去と現在と未来も、関わり合って重なり合ってるくせにズレまくりなんだよ互いに。何かをする前は気が重くて億劫でしょうがないけど、実際やるとそこまで嫌な何かがあるわけでもないようなこととか。だからといって次から平気になるわけでもなくまたちょっと気が重いとか。
 きっとこれがあれば救われる、苦しみを埋め合わせられるとか思っても、実際そうなったところでそんなに補って余りあるものでもないとか。というか補うなんてない、苦労しても得るものがあったからよかったというのも、別に得るものが苦労を帳消しにしたわけじゃなくて、苦労も得たものも独立に実感としてあったもので、せいぜい喜びを前に苦しさを忘れた、考えなくなったってだけ。
 だからこの色んなもののズレというのはなんかすごく煩わしい、と思いつつ、ズレがない状態というのはどんななんだろうというところまでは考えてないです。たぶんそれこそ、それがなかったらどんなにいいだろうと思いつつ本当になくなってしまえば死んだのと同じ、とかそういう話になるんだろうなー、この手のはいつもそうだから嫌なんだよ、あーやだやだ、ほんと暑い。