リラックスの仕方と不幸と規範と正しさ
- 作者: 山口正二,内山喜久雄,高野清純
- 出版社/メーカー: 日本文化科学社
- 発売日: 1998/03
- メディア: 単行本
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自律訓練法とか筋弛緩法は取り入れてやってみてます。現実がそれほど思わしくなくてもこれでリラックスすれば安泰(それもどう)。でも無駄に落ち込んだり不安や焦りに囚われても頑張る動力にはならないよなってのは経験的には思います。方法名で検索すれば概要や手順を書いたものはウェブにもあるようです。
日本社会はメンタルヘルスがやばいとかストレスがひどいとかよく言われるわりには、こういう実践的で手軽な方法はそれほど表立って取り上げられない気がするんだけど、勘違いですかね。なんだか社会が労働がとかいう方向に向かいがちな気が。それはそれで問題はあるんだろうけど簡単にどうこうしがたい問題なわけで。
話が飛ぶけど、孤独死とか自殺とかも、不幸だ悲惨だって騒がれるけど、考えていくとちょっと違うんじゃ、って思うようになった。いやもちろん幸せだというわけでもないけど。どっちも死んだ時の形態がどうであるか、という点に重点が置かれるのに違和感がある。死ぬときにこういう状態や方法だったから不幸あるいは幸せだったという判断には繋がらないんじゃないか。
それよりも、死ぬ前に孤独感の中に沈んでいたとか、何らかの苦しみの果てに絶望して死を選んだ、ということなら、そういう心の状態であることが、その時点では生きていても、本人にとって苦しくて辛いことだろうし、私にはそのことが不幸なことだと思える。
死は単に「終わり」なんだから(そうじゃない考え方もあるけど)、どういう形態であれそれ自体には、不幸とかどうとか価値判断も何もないように思う。あるとしてもそれは「外側」にどう映るか、でしかない。
どんなに幸せに生きた人でも、自殺はしないとしても孤独死はありえるわけで。それを結果だけを取り上げて悲しいこと、と必ずしも断じられるわけでもないよなと。
幸せテンプレートみたいなものがあって、そこから外れてるから不幸だって判断がままある。自分が本当にその状態を苦しく感じているかどうかという内実よりも、「幸せというのはこういうこと」という規範が重視されていることが。
この前見た、学校に行かない孫に「学校が嫌なら死のうか」とかいって祖父が猟銃を構えたってニュースもそれと近いものがあると思った。というか唖然として腹が立った。何で孫が苦しいのかどうなのかということよりも、学校に行く行かないという形式がそんなに重要なんだろうか。
行かないことが何かしら問題であり矯正や援助がされるべきという前提に立ったとしても、それは孫にとっての幸せあるいは「まともさ」という価値のために学校に行くことが正当化・よいものとされることであって、学校に行かないから死ねって完全に倒錯している。
内実よりも形式や規範が大事なんだな、というか、大事にしてしまってるから、自分や周りを不幸にしてしまってるんだなと。この辺のことって、自分でこれまで経験ももとにして考えてきたことにも繋がってるし、読んで「これはその通りだな」って思えた先輩方の書きものにも通底していることだなあ、と。
規範だとか「正しいこと」ってもはや敵だとすら思えてきているというか。それがどんな種類のものであれ、「正しさ」って根本的に人間の本性にとって、どっか危険なんだろうなと。どうしてかは知らないし、正しさが要らないわけでもないのだろうけど、そういうふうに思えている。