俯瞰も主観

 ごちゃごちゃ書けるほど理屈づけできることでもないけども。あらゆることが主観なのだなー、結局は、という考えが気持ちも伴いつつ湧いた。主観、という用語で意味されるものというより、その人自身のもの、というか。
 哲学だろうと、哲学者になる人生を歩んできたような人が、先人の書物を読んだ上で考えたり表現したことで、それだってあらゆる文脈から外れたところにある思考ってわけじゃない。普通の人間も、自分が出会ったものとかに応じてその場の感じ方があったり、考えたりするだけで。
 俯瞰とかして、客観的に正しいものに寄りかかれてる気分になってたところが強かったかもしれない、最近。不合理な思考とかいうけど、以前の自分の見え方が間違っていたか、っていったらそうじゃない、と思う。いやそうじゃないとかそうだとか言える次元のことですらない。もっと単純にあの時は苦しかったのが、今はそうじゃないから、だからいいと思うだけだ。それは直感とか、体レベルでの反応であって、おいしい・まずいとか、痛い・痛くないということと同じ。もしかしたら痛いほうがいい人とか、自分の痛いが痛くない人もいるのかもしれないし、痛いのを手放さない何かしらの理由があるとかかもしれない。
 道徳とか真理も、論理的なつながりみたいなのはあるにしても、遡れば、はじまりには、自分が正しいと感じること以外にはない。
 もちろん、説明したり説得したりして、証明しようとする、そしてわかってもらう、同意してもらう、ということがあるわけだから、そういうのも必要だし、全部それぞれの考えや見方だとか言っててもって思うんですけど。全部主観だーっていったら、それも主観?というよくあるやつ(これって決まった言い方あるのかな。自己言及のパラドックス?)になるわけで。
 だから俯瞰、とか客観、みたいなのもありつつ、でもそれも主観かもしれないよ的なバランスの上でやっていくほかない、わけなんだろうなって思う、ことにしておきます。