みんなのエゴ(「みんなのうた」みたいなあれで)

 悪夢といえるか微妙だけどそんなような夢を見た。中学の時の状況で、その頃の心理状況とか世界の見え方とかがきっちり再現されてて、起きてから泣いてみたりとかしてなんだこれって感じだった。あそこまで認知状況が再現されたのも久しぶりというか、起きてるときはそういうのを想起しようとしても限界があって、その時の感情や感覚がぼんやり思い出せる、ぐらいにしかならない。
 他者との関係の中で、自分の中にどういう感情や信念、思考が生まれるかという、精神が世界を捉えるあり方に、言ってみれば自我モードと俯瞰モードみたいなのがあるように思えている。ベタとメタって言えばいいのかもしれないけど、それだと広すぎるというのもあって、自分の中で明確にするための名称だけど。
 自我モードは単純に自分が他者にどうされてどう思う、みたいな基本的に感情が伴なう思考とかで、自分中心の捉え方。俯瞰モードは自分も他人も同次元で、どういう理由による言動なのかを見るもので、その捉え方においては感情とか気持ちみたいなものは下位次元にあって、そこに現れるのは無色の命題。簡単に言えば「死ぬの怖い」が自我で、「人は死ぬ」が俯瞰。で、俯瞰は自我にフィードバックして、自我の反応を変える。みんな死ぬなら、そんなに怖がらないでいいか、みたいな。
 「他の人も同じ、みんな苦しい」みたいな言葉って、自我としては、それが自分の苦しさとどう関係あるんだ、意味分からない、というふうに思うけど、適切なタイミングであれば、俯瞰に切り替えさせることにもなりうる、というかそういう趣旨で使われてるんだなとか思った。別に切り替わるのがいいというわけじゃないけど。
 正義とかのことも関連で考えて、大抵の正義はエゴから発せられてるみたいだなって思うけど、だからといってそれを気持ち悪く感じるわけじゃない。ただ、あまり直接的にエゴっぽくない感じなのは、お綺麗な価値観だなと思えてしまい、忌避感を覚えることが多い。お綺麗っていっても色々あるけど。だからといって、それ欺瞞でしょ、なんて試すようなことをしたいと思うわけもない。自分の勝手な判断だし、相手がこっちにそれを証明する義理なんてない。そうすべきときにそうすればいいだけのことだ。
 完全にエゴを通せば、「私の生存や利益のために私のエゴに従え、それができないなら死ね」って話になるけど、そんなことを誰に対してもしてたら自分の生存も支えられなくなるからそれをするわけにはいかない。だから殺し合ってどっちかが大満足よりかは、どちらもある程度は妥協してお互いそれなりの利益を受け取れるようにしようっていうのがある種(というか全部?)の道徳だろうと思う。
 それから、小池龍之介さんの本に人間自分のエゴは大好き、他人のエゴは大嫌い書いててあーとか思ったのと、道徳規範の普遍化可能性とかもこの辺の問題じゃないのか、とかぼんやりと考えてたり、エゴ感情が湧いたり湧かなかったりとか。あとドイツ観念論を漁ったときにフィヒテの自我とかで、なんでそんな概念が持ち出されるのか必然性がさっぱりわからない、とか思ってました。