道徳のことを考える(1)

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

 とりあえず第3章の「倫理における主観主義」について。ここのところ自分もこのあたりに傾いているところがあるので、それってどうなんだろうかというのもありまして。
 この本の1章にもあるけど、倫理ってつまり他者の利益や心情をどれだけ勘案してどのように行動するか、ということなわけですけど。
 外部や他人がどうであろうと、どう自分を見ているとしてもそれに不安を感じて心を左右されないようになってきて、さらにそれを強化していくつもりでいる自分としては、そういう状態を作り出すための思考過程が主観主義に繋がってくる。
 その思考というのは、他人とか外的なものは思い通りにはできない→最悪殺されたり、自分にとって害あることがされる可能性はいくらでもある→不安が生まれてしまう要因→殺すなら殺せばいいし、自分をどう思おうが勝手にすればいい→他人がどうであれ心が揺らがないですむ、というもの。
 この操作できないから勝手にしろ、という部分が関わってて、他人がどういう風に考えたり行動しようとそれは他人の領分だし、法でもない限り何かを強制することなんてできないし、自分が直接的に被害を受けるのでもなけりゃどうこうしようとか思わないしできねーよ、となっている。
 でもまあ反動形成っぽいし、感情を伴う信念であって、これも道徳についての一つの立場でしかないのだけど。思い通りにならないということからは、他人の行為に道徳的な評価を下したり非難したり口出ししたりしない(勝手にしろという態度を向ける)ことが必然的に出てくるわけではないし。
 こういう態度自体は主観主義とは違うんだけど、これと「価値には絶対的、客観的基準はない(あったらあらゆる争いや意見の相違はない)」ていうのが加わって主観主義的な考えを相互に強化しあってるというか、支え合っている。
 あと、他者の利益や心情を慮るに当たって、それって一律にどうこうできる問題でもない、というのもある。その他者との関係性がどうであり、どういう態度や気分、枠組みで捉えているかで、ある言動や出来事がどういう解釈がなされ、その人にとってどれだけ重要な意味を持つかというのも全部変わる。そういうパラメーターだらけだから、誰かにとっては傷つくようなことでも、傍から見れば笑いごと・どうでもいいことだったりするので、それを絶対的に悪とか善とか評価する軸なんてない、という。