選べる運命

 思考の断片の連なったものはいくらかあるけど、それをどうまとめたり吐き出そうか、というあたりで壁みたいな、スムーズにはいかない感じがあったり。吐き出そうとするのはどうしてかということも考えなくはない。もともと、伝えたいとか認められたい衝動や欲望もそんなにないかなあ、と。葛藤が減るといっそう。
 今はそれこそ、ディスプレイの外と中で断絶しない程度に繋がっていられればなんかまあ安心はする、ぐらいの気持ちだろうか。と、いうか繋がってないと何かしら不安や欠如があるってことかーといま気づいた。人間ってあまり自分がどういう価値の下で考えたり行動したり感じたりしてるのか把握してないし、してたとしてもコントロールできる水準じゃないですよね、とここで最近考えてたことに繋げてみる。半分以上というか8、9割は反射みたいなもので構成されてるんではないか。言葉も行動も文脈から受ける規定が大きすぎる気がする。少なくとも大枠や方向性はだいたい決まる。
 その場その場のことだけじゃなくて、人生というかそれぐらい大局でどうなるか、というのも、結局はそういうのが大きいのではないかな、と感じる。すべての選択肢が同列に目の前に並べられてさあどれかを選びなさい、なんてことにはなってないわけだから。全くフラットに見れば、どれも選ぼうとすれば選べる、とは言えるかもしれないけど。選ぶ本人には、すでに価値の序列だとか、いろいろ制約になるものがあるわけで、すべてを等価に見るなんてできない、選ぼうとする時点で。
 だからというかなんというか、いくつもの選択肢から選べる、みたいなことはそれほど重要じゃないんじゃないか。いや、重要性なんてそれこそ文脈で色々あるだろうけど。自由の問題とかでいうと。選択肢が複数あるから自由なのかというと、それはそれで必要なことだろうけど、決定的なのはたぶん引き受けることじゃないかと。
 世界を決定論的に見なしたり、説明することはできる、証明はできなくても。そういう想定のもとでは、選択肢っていうのは、あなたがそれを選んだんですよ、と完全に「私」の決定で責任である、ということを確証するための仕掛け、になる。本当はその選択なんて、過去のあらゆる経験や選ぶ際の状況によって生じた結果でしかない、と言うこともできる。つまり責任とか「〜のせい」なんてその程度の概念なんであって。重要なのはそれをいつ、どう配分すればその問題の関わる集団において最適な、納得がいく結果を生じさせられるか。だから、実際に強制して引き受けさせられるわけでもない状況で、誰のせいかを求める思考や議論なんてそれほど意味もない、感情の空転だよな、なんて思う。まあ、それが動因になって実際の状況を作りうるからいいのか。そういうのを選ぶのも。