通じる説教、通じない説教

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期待できるものや希望がないのなら、努力できない、ということについては同意したい。だけど、それだから確実に成功を体験させる、そうできるまで見守る人でなければ、何も言えない、言ったところで自己満足な説教にしかならない*1というのだとしたら、何か違うと思う。

最後でおっしゃっているように、実際、確実に成功体験まで導くことができる人間がどれだけいるのだろう。いたとして、実際にそこまでしてくれるなんてことがどれだけの確率であるんだろう。何についての成功を欲しているのか、導きをどんな人に求めるかによって変わるだろうが、ほとんどといっていいくらいない、と思う。「確実」なんて、誰も保証できない。

だからといって、「だからがんばるしかないんだから、がんばれよ」と言うつもりはない。そういうことを問題にしたいわけじゃない。「確実に導いてくれる人」の言葉のみが通用し、それ以外は結局通じない、ということに疑問がある。

「がんばれ」が自己満足な説教だと判断して拒否するのは、受け手側の裁量である上に、それしか「説教」であることの基準はないように思うからだ。

善意だからといって善として受け取る必要はない。だけど、例えばネットで放たれた気軽な一言で、それ以上深く付き合ってくれるわけではないから、そういうのはすべて無責任な説教だ、というふうには判断しないほうが得なのではないか。

少なくとも、努力をするにも原資がいる。 - ガイチ帝国繁盛記で言及されている簡単に言えばプライドを持つってことじゃないかな。 自分でネタにするのは..については、単なる説教だと考えなくてもいい気がする。この人は、「本当の底辺を舐めた」わけでも「どこまでもサポートしてくれる」わけでもないかもしれないが、できる範囲での善意を投げかけようとはしたんじゃないのだろうか。

だから、受け取れる善意はあるんじゃないか。そういうものまで切って捨てるのは、自由だけれど、それだと0か100か、いずれかの道しかなくなってしまうように思える。それは損じゃないのか。そのようにしか思えない心理的な状況というのもあるだろうけれど。

このエントリで意識が向いているのは、もっと明らかに当然のように「それはやる気の問題だろ」と言ってくるものなのかな、とも思うので、そういうものを非難したいという気持ちはわかるのだけど。

善意が的外れであったり、押し付けのようなものである場合はあるから、それを批判するのはあっていいんだが、そこであまりにも攻撃的になると、敵対的になってしまい、希望の道も絶ってしまうことになるのではないか。そういう場合は、「こうしてもらえると、私も嬉しいし、あなたも善意を無駄にしないですみますよ」という形に…できれば苦労はないのだろうけど、そうできそうな相手にはそうしたほうがいいのではと思う。

*1:ここは読み取りすぎかもしれないけれど