自己分析的に考えた、「変わること」の持つ意味

内省した結果の自己理解の、覚え書き。ちょっと書くために書いてしまったというか、違うかな、という感じのところもある。

非コミュだったり、不適応を起こしている人間は、もしそのままでは、まともに・幸福に・バランスよく、生きていけない、のなら。そしてそのように生きていきたいのなら、変わる必要が出てくる。

でもここで、すんなり変わることのできない理由、というかそれを妨げるものがある。

ひとつは、まあ単純に、人は急には変われない、といったことがある。

もうひとつには。

そういう人間には、何らかの共同体から疎外されているとか、拒否されていると感じた経験がある。「そのような私」であったがゆえに。そのため、変わることは、その「彼ら」の価値基準に迎合したことになる。そこで、

「なぜ私を冷遇した他者のために変わらなければならないの?」

というような抵抗意識が生まれるのだ、と思う。

私は、うまく生きるために、私を変えることを考えている。でもそんなことをしたら、「私」を否定した、「そんなお前は要らない」と言った「彼ら」のために変わることになってしまう。

自己評価の低さという逃げ道の話 - pal-9999の日記とも関連するかな、と思ったのだけど、「どうせ私なんか駄目だ」といった自己否定の意識がある。その根には、それが全てとは言えないまでも、上記の抵抗意識があるのだろう、と思う。そういう点で、自己否定は、防衛の側面も持ち合わせている。こう思うことで、「私」を拒否した「彼ら」に取り入らずにすむのだから。

そんな抵抗が働く限りは、変わるのは一層難しいものになる。
「なぜ奴らを喜ばす(ために・結果になる)のに私が変わらなければならないの?」
という問いには、「それでも変わらなければならない」と心底納得できる答えはあまり出せないから。

たぶん「奴ら」へのこの憎しみは、人によるかもしれないが、あらゆる優先すべきものを飛び越える。時には生存への執着さえも。命を失ってでも、敵に降伏などしたくない、とでもいうような意識。だから、「私はなんて駄目なんだ」という言明は、むしろ差し出しやすい部類に入るのかもしれない。世界にとっての私の価値、を捨てているだけなんだから、それは「私」を捨てているわけではないし、世界にとっての私の価値なら「彼ら」に否定されているのだから、自明・証明済みのことを言ったに過ぎない。

(ただ、普通は自分は駄目なんだ、という自己嫌悪の意識を持っているから死にたくなる、とかって自己了解されると思うのだけど、これは感情の偽装、ってことにしていいのか)

だから、もしそういった妨げを受けずに、変わることを自然に納得するためには、「『私のために』変わる」という意識が必要なのだと思う。

とはいっても、「私」の領域が自分の心と身体にだけ限定されたものになってしまっていると、「彼らのため」よりはマシだろうけど、かなり苦しい、のではないかと思う。「私」以外は「彼ら」になってしまうから、たとえ自分のため、だと思っても結局「彼ら」の意に沿う形ってことになる。それは死にたいくらい嫌だ。

だから、「私」の領域は広くなければならない。
私の愛する音楽、言葉、人、が私の領域になる。それらのために変わる、なら抵抗は薄い。それらは私を否定するものではなく、肯定するものだから。私がよりよいものになること、幸せであることを望んでくれているものだから。そして私もそれらの意に沿いたいと思っているから。それらが占める空間が広ければ、たぶん、変わりやすい。実際に劇的に変われないとしても、変わることに対する抵抗や葛藤はひどくない。

そういう意味で、「私と、私の愛するもののために」変わる、という道が、見えてくることもある、と思う。

(もしかすると、「私」を「彼ら」以上に、主体的に否定することで、変わる場合もあるのかもしれない)

追記

「私」とか「彼ら」というのは、自己意識の中で対立している価値観とか認識の象徴、という意味で、実際に冷遇したりした特定の人間がいる、ということとを必ずしも意味するわけではない。そのような認識フィルターがある、ということ。また、上述したのは私が精神的な葛藤にあるときの感覚をこういうことなのかな、と断片的に推測・整理しているものに過ぎない。説明不足かもという気がしたので蛇足ながら。