非コミュ、あるいは緘黙の行動の利害などについて

2008年03月16日PANZIG コミュニケーション, 非コミュ「完全に何もしない、はマイナスになることはあっても、プラスにはならない。」/誰かに対して何かすることがマイナスになることはあっても、プラスにはならないと思う人が非コミュになるのだと思ってる。

PANZIGさん、示唆に富むコメントありがとうございます。

「誰かに対して何かすることがマイナスになることはあっても、プラスにはならないと思う人が非コミュになる」

あー、なるほど。いわんとすることはわかる、と思いました。人間は、自分の利益のために行動しているものですからね。でも、「完全に何もしない、はマイナスになることはあってもプラスにはならない。」、というほうも、非コミュはしっかり認識している場合が多いのではないか、むしろ、こういう風にしか思っていないのではないか、と思うのですよ。少なくとも私はそう思ってました。この矛盾は何なのか、とちょっと考えたのですが。

結論から言えば、非コミュの意識と無意識のズレ、なのだと思います。というとちょっと端的過ぎるのですけど。

PANZIGさんが指摘してくださったほうは、誰かに対して何かをする場合のリスクの計算、を考慮に入れた場合は、結果的にマイナスにはならないほう(何もしないほう)を選んでるよね?っていうことだと。

非コミュは、意識的あるいは主体的に、何もしないほうがマイナスにならないからしない、と考えて、何もしないことを選択しているわけではないと思うのです。あ、えーと、そうである場合もあると思うんですけど、とりあえず、ここでは私が緘黙のころ、何もしなかった時の心理状態に基づきます。

私は、意識的には、「完全に何もしない、はマイナスになることはあってもプラスにはならない。」と思っていました。

意識上はそうであっても、無意識のうち(感情のうち)に誰かに何かをすることで、自分が何らかの注目を浴びる、挙動不審になりおかしいと思われる、など、主に普通じゃないと思われる、とか恥をかく結果が起こることを異常に恐れていました。そのために、「何もしない」ことを選ぶことが多かったです。*1だから、無意識的な、感情を含めた利害計算では、マイナスにならないほうを選んでいた、ことになるのだと思います。

ただ、それを、じゃあ結局はあなたが選んだことなんじゃない、と言われると、ちょっと待ってよ、といいたくはなります。

何かすることに対して私が抱いていた恐れを、他の人は抱いていたんだろうか?と考えると、恐れがまったくない、という人はいないだろうと思うけれども、やっぱりあの頃の私は、特別ひどかったんじゃないかと。だから何もしない、発語もしない、という行動に結果的になったのだと思います。私としては、その感情を自分で選んだつもりはなく、何時の間にか背負わされてしまった、という認識なので、そこに対して不公平さを感じていました。最終的には、自分の行動を自分で引き受けなければならない、というのもわかりますが、非コミュが何もしない、というのは「誰かに対して何かすることがマイナスになることはあっても、プラスにはならない」という判断から主体的に選択された行動なのか?そう見なして、非コミュじゃない人が何もしないのではなく行動していることと同等のもの、としていいのだろうか?という疑問はあります。

というか、あんまり「非コミュ」として一般化するのは無理があるように思えてきた。基本的に、これまで述べてきたことは、かつての緘黙であった私について言うと、として考えてもらえれば、と思います。

*1:「選ぶ」と書きましたが、私自身は自由な選択の余地は恐怖や不安のためになかったという認識です