自分・自分・自分

 もう良い子ぶったり平和を演じるくらいならエゴ全開で死ねとか殺してやるとかでいいからすっきりさせてしまおうという気分になってみたり。そもそも黙ってたって誰かが慮ってくれるわけじゃないから、最終的には邪魔してくる奴や害をなしてくる奴を殺す覚悟は必要なんだって割り切ったわけで。中庸とか穏健なのもそれはそれで面倒だよねっていうか、自分もそういうのに向いてる気質だとも別に思わない。いちいちコンフリクトに対面するのが面倒で、臆病なだけだ。
 自分を何もかも肯定して生存のために殺すか、金輪際苦しまなくていいように死ぬかぐらいだ。突き詰めれば選択肢はそれだけなんじゃないか。自信がないように振舞ったりしたって意味ない。お前のことなんてどうでもいいといえばどうでもいいんだから。だったら殺すべきだ。もちろん人間そんな単純にはできてないから、言葉とか笑顔だとかいろんなスキルを駆使するんだけど。
 まあでも、自分を肯定できない自分とか、生存・社会スキル的なものが劣っている自分それ自体を否定できるかどうかが問題になる場合はあって、その辺はよくわからないけど。でもそれも自己愛の変形なわけだから、それごと肯定すればいいわけですよ、劣っている自分で悪かったなそれをどうこう言うお前が死ねよ、ってことにすればいい。いや、みんながみんな目に見えてそんな振る舞いをしたら嫌だけど。でも根幹はそういうことだ。
 何かメタ感情みたいなものでこじれる場合ってよくあるっぽい、とエリスの本を見ても思ったのだけど。こんなこと思っちゃいけないとか感じちゃいけないとか思うだけダメですよね。自分なんだから。いやもちろん思っちゃいけないと思っちゃいけない、ってなってもダメだけど。そうなってしまうのはダメだ、となってもダメだけど。だからそういう価値判断をするんじゃなくて、受け入れるとか許すのがたぶんいい。許せなくても許せないことごと許すこと。自分が許すんじゃなくても結局は許されてるというか。いや知らないけど、そんな感じなら変に追い詰めなくてすむから楽かなと。
 わかったようなこと言う自分死ねとかいくらでも思えるけど、プラスになることはないからやめる。誰のためにそんな自責をするのかよくわからない。別にしてもいいけど。
 自己意識ばっかでうんざりですね。ママさんバレーでつかまえて再放送と今日の生放送見て面白かったです。プレッシャーすごそうだなとか思って、こっちも緊張した。こういう緊張の伝播というか、人が何かをやってるのを勝手に恥ずかしく思ったりすることってよくあるかつ過剰なのだけれど、これも不安の感じやすさとかと通じるものなんですかね。