ゲームでの死

あるアクションゲームで、死ぬこと(ヒットポイントがなくなるなどの結果、またやり直さなければならなくなること)があまり大したリスクになっていないように思えて、違和感が生じ、そもそも死ぬことの必要って何なんだろう、そのゲームはアクションしていること自体面白いから、死なんてなくても面白さには問題は生じないんではないだろうかと思った。けれど、よく考えてみると、ゲーム一般を構成する概念から帰結するものとして位置づけられる気がした。というか、逆に辿ることで、ゲームというもの一般について考察できてぷちブレイクスルー的な爽やかな風体感。春風。気持ち悪い自分。
ゲームでの死が何を意味するか、といえば、それは失敗ということではないかと。そこから導けたことは、ゲームというのは、勝利、成功、目的の達成(クリアー)、といった概念と強く結び付いているものだということ。それどころか不可欠の構成要素であって、それがないものでゲームと呼ばれるものはそれほどない気がする。達成すること(終わり)がなかったとしても、上手くいっている状態に近づけようとすること、それを目指すことがはじめから設定されていることは必要であると思う。
将棋においては相手の王将を奪えば勝ち、サッカーではゴールを多く入れて得点を多く獲得したものが勝ち、テトリスでは一度に多くのブロックを消したほうが得点になる(んだっけか)、ローグライクゲームなら最深階に達することが目的、大縄飛びなら多くの人が同時に多くの回数飛べるほうが、上手くいっている。その「勝利」や「達成」は別にプレイヤー自身のゲーム外(現実)の利益とは必ずしも関わりがあるわけではないが、それは求められる。
そういった「何が成功ということか」「何が達成ということか」「何が上手くいっているということか」ということがその中で設定されていることが、ゲームの前提条件であるなら、必然的に「失敗」「上手くいっていない」ということが生まれるし、そういう極が必要になってくる。どんな行いをしても、成功するのなら、うまくいくのなら、それはゲームではないだろうし、そんなものにさほど人は惹かれないだろう。逆に、そういう極があることが、いろいろな状況に対する方略や、最強の武器防具というものの価値を高めるのであって。
だから、件のゲームも、失敗、ということの端的な現れとして死というものが求められているのだろう、ということに落ち着けられる気はした。が、どうしても必要だ、とまではいえないかもしれない。

どんな自分が幸せです
成功も失敗もない
空のように透き通っていたい
(宇多田ヒカル『テイク5』)

component notions of game :
success, failure, win, lose, goal, achievement | means, strategy, skill | obstacle, enemy | adviser, helper | (rules)

cf. Game - Wikipedia