死とか何とか

読んだのはずっと前なのだけど、絵本作家の五味太郎が、人間は人間的な見方に拘束されちゃってて、だから「木が風雪に耐えて立っている」などと書いちまうのだが、べつに木は耐えてなんかなくて、ただそこにあるだけだよね、その辺は人間の弱点(?)だよね、みたいなことを書いていた*1

今の私なりに解釈すれば、人は、客観的に物質的に見るってことがあんまり得意じゃなく、情緒的な見方に傾きがちだよね、というようなことだろう。ちょっと端的すぎるかもしれないが。
西洋人なんかに比べれば、日本人はそういう客観的な見方をする傾向が薄い、というようなこともあって、そんな風に思ったのかもしれない。五味さんは結構ロジカルな考え方をしているという印象があったし。

まあ、人間以外にそういう情緒的な見方を適用するな、というのは割とわかる話かと思うのだけど。
最近[死生]タグをつけたエントリなんかを読むと、人間に対してもそんな物質的な観点を思ってしまうぐらい、人の死って何だか、軽いな、と。感じてしまいました。いや、軽いじゃ語弊があるか。あっけない、が適切かな。

何というか、その誰かの死を語る書き手の語り口に感じる、死に対する視線のようなものが。ごく客観的で、まるで剛速球がミットに吸い込まれるのをぽかんと見ているかのような。そんなようなものを感じた。*2

誰かが死んだことは、「死んだ」としか言い表しようがないのだな、というか。もちろん死んだことをとても悲しく思う人だっているし、正負を問わず死は人の情動を揺り動かすものであるのだろうと思う。ただ、死によって情動が揺るぐのは、死んだ人自身ではないわけで。死には、死者自身による意味づけがない。死に感触や風景はない。だから、死を描写しようとしても、「死んだ」というしかない。せいぜいが、天に召されたとか、地獄に堕ちたとか、そういう比喩で語ることができるだけだ。

それぐらい、死は客観的な意味しかない。

火葬で遺体が燃やされてしまうことも、そんな風な感覚を覚えさせる気がする。彼、彼女は死にましたよ。それだけですよ、みたいな。「死」なんてものすごいことのはずなのに、誰も身体的に痛みはない。ただ、三人称的に見ることしかできない。とても大切な人の死なら、違うのだろうか。

木がただそこにあるだけで、いつかは朽ちるみたいに。人間もただ生きて死ぬんだな、と思ったりしました。

別に私が生き死にのなんたるかを知っているわけもなくて、思ったことを書きました。デリカシーなく見えたら、というか気を悪くされたらすみません。青臭く見えたら、恥ずかしいですが。あ、全部そうじゃんなんだ^^よかったよかったー心配してそんしたータロウくんのバカ!嫌い!タロウくんなんかしんじゃえー。ウソ、死なないで。私のために生きて。死なないで。

*1:正確ではない。おそらく『大人問題 (講談社文庫)』にある

*2:もちろん私が勝手に読み取っただけであり、実際にそういった部分があるとしてもそれが全てなわけはないだろうけど。